![野草 [photo. 野草]](../image/asahi9.gif)
[登場人物]
わたし
妹
圭(けい) 高校の友だち
入道 高校の友だち
えっちゃん 高校の友だち
かめちゃん 部活の仲間
コースケ 部活の仲間
マリアさん コースケのパートナー
ウィリアム 英国からの留学生
サラ ウィリアムのパートナー
稲葉さん 講座の助教
前田さん 講座の修士
しんさん パン職人
エマ パン屋の同僚
目次
(第一幕 青年)
第一場 高校の友だち
開けはなした窓から、海からの風が入ってくる。汗をかいた肌に、風がここちよい。ここは、学区のモデルケースに建ったという小さな武道館。「守破離」の扁額が見おろしている。
上段を構えた相手と対峙している。頭上から稲妻が飛んできた。相打ちで切り落とし、スッと前へ出て左腰を入れ、相手の浮いた腰に当てた。相手は姿勢をくずして倒れ、背中で羽目板まですべって行った。そしてゆっくりと起き上がり、
「破(は)にはまだまだだったね」
「まぁね。そろそろ終わりにしようか」
「もうそんな時間?」
「うん、ごめん。ちょっと人と待ち合わせているんだ」
「このあいだ、砂浜にいたひと?」
「見ていた?」
「アツアツそうだった」
「夏だからね」
朝の立ちあい稽古はすがすがしい。圭のちゃちゃを受け流して、シャワールームに入る。肌を流れる水が玉になる。まつわりついた汗が流れないような気がして、コックの目盛りを上げる。肌を打つバブルジェットがここちよい。壁隣りのブースから声がした。
「何か言った? よく聞こえない」
「一時間目、なんだっけ?」
「見てこなかった」
「おんなじかぁ」
「まぁ、友だちだからね」
「類は友を呼ぶ」
「ほんと」
シャワーを浴びてすっきりとした風体で、図書室の方へ足早に歩く。角を曲がると、渡り廊下のむこうから大股でやってくる姿に出会う。左手をあげると、右手をあげて返してきた。
「まった?」
「いや。今、来たところ」
「誕生日、おめでとう、ちょっと早いけど。はい、これ」
「ありがとう。何?」
「しあわせの詩集」
あたりまえのしあわせ
空があおいこと
雲が浮かんでいるということ
木の葉が風にそよいでいること
「なるほど。そうだね。ありがとう」
「でしょ? よかった。どう、最近?」
「まぁまぁ」
「じゃなくて」
「えっちゃんのこと?」
「うん」
「相変わらず」
「そう。様子見かしら?」
「うん、それがいいみたい」
「一人でいられる友だちかどうか」
「そうだね」
友だちのえっちゃんは陸上競技の短距離走者だ。えっちゃんは援交をしている。だれにも迷惑をかけていないというのが彼女の言い分だ。でも自分のからだには迷惑をかけていると思う。えっちゃんは、ちっとも迷惑なんかじゃないよと言う。目下のところ、それが問題だ。心と体は表裏一体、「心と体とわたしのこと」をわかってもらうのはホントにむずかしい。
一時間目。数学。抜き打ちの試験だ。松本先生のギョロ目が探索ビームを放っている。まいった。朝練で抜き打ちの稽古はしていなかったので、気持ちを落ちつかせるため、ゆっくりと深呼吸をした。窓に海から反射したひかりが踊っている。夏の朝の一時間目、机の上のまっしろな答案用紙、きらめく窓。あたりまえのしあわせとえっちゃん。この空気の肌合いはいつまでも忘れないような気がする。
第二場 家族や親族
学校から家までは歩いて三十分。ふたり並んで、ゆっくりと歩いて帰る。自然に歩調が合ってくる。丘の向こうを走る、小さな電車のゴトゴトいう音が聞こえる。えっちゃんのことも気になるけれど、今は並んで歩くことを楽しんでいたい。なにを話したらいいんだろう、と頭の中をことばがグルグル回っている。川を渡る橋の上で、よく行くスーパーのオヤジさんが軽トラックで来るのに出会った。おじさんはふたりが仲良く並んで歩いているのを見て、ポカンと口を開けて運転していった。
「おじさん、前見て運転しているかな」
「うらやましそうだったね」
「そうかなぁ」
「そうだよ、ぜったい」
と力を入れて言った。おじさんの方をふり返りたい衝動をおさえ、こんな詩を思い出していた。
海よ 云ふてはなりませぬ
空も だまっていますゆえ
あなたが誰で 私が何か
誰もまことは知りませぬ (石垣りん)
家に帰り、おじさんに見られたこと、「ぜったい」に力をこめた意味を考えていると、窓がザァザァと鳴った。海が近いから、風が強い日には海岸の砂が吹き飛ばされてくる。こんな日には窓を開けることができない。庭のクローバーの上にはきっと、うっすらと砂が降りつもっているだろう。つもって吹き飛ばされて、またつもって吹き飛ばされて、さらにつもって吹き飛ばされてをくり返しているだろう。こんどは頭の中を、誰もまことは知りません、というフレーズがくり返されている。
足音がして、母が入ってきた。
「えいじぃのお葬式に行くの。ねぇ、一緒に行って」
「なんでぇ」
「いいでしょ、家族なんだから」
「前もって言ってよ」
「しょうがないでしょ。突然なんだから」
「一人で行ってよ」
「あなたは情が薄いわねぇ」
「薄いじゃなくて、ないの」
「へ~、ないんだ」
「そう、あなたが言っているような情は」
「ふ~ん、じゃぁどんな情があるの」
いままで玄関で母と立ち話をしていた隣のりつ子さんが入ってきた。
「行ってあげなさいよ。誰のおかげで大きくなったの」
「自分のおかげ」
「まぁ、減らず口を」
「口が減ったらたいへんだ」
二対一では分が悪い。まして、口が達者な二人が相手だ。そそくさと逃げるに限る。「雪は天からの手紙」という言葉で有名な中谷宇吉郎が『科学以前の心』という本を書いている。その中で、中谷が高校時代に下宿していた金沢で、中谷の理屈に対し、「やっぱし学問のある人には、かないみしん。うまいことだまかしなさる」と返答するおばあさんが出てくる。そこでは彼は、古都金沢の歴史文化に思いをはせ、非科学的なものも社会にとってひとつの印影だと言っている。みんな、毎日の生活の中で、できごとの一つ一つを適切にさばき、かつ心をすり減らさないようにして生きている。日常の面倒の中にはみんなが大事だと思っていることも多い。その中でも避けるわけにいかない人間関係、特に冠婚葬祭は何より優先だと思っている人が多い。こんな、大事だと思っていることが、しばしばわたしを疲れさせる。
第三場 妹
朝、ダイニングテーブルの上に開いていた新聞に、思わず目がいった。『心は皮膚』(サヘル・ローズ:毎日新聞 2017/07/24)、その周りのこんな文章。
「脳は指令室だから、脳と心は真逆な思考回路な気がします。うん、心は皮膚だと思います。全てを感じ取り、悲しんだり、喜んだり、愛したり、憎んだり。」
脳と心は同じではないにしろ影響しあっていると思うが、心は皮膚とは! 衝撃的だった。でもどこか頷いている自分がいた。皮膚に粘膜を加えると、触感・味覚・聴覚・視覚・嗅覚の五感すべてを含む。五感は無意識だ。無意識の風が吹くと意識の枝はその風にさやぐ。
だから、やっぱり『ヒフもこころ』だと思う。
「何を感心しているの?」
「これさ、これ」
「心は皮膚? そうよ、あたりまえよ」
「え、そうなの」
「そうよ、『第三の脳』っていう本もあるくらいよ」
「ふ~ん、知らなかった」
「まだまだだねえ」
妹にちゃかされて、いや、でも、本気かもしれないとも感じつつ、確かめるのも怖いので、そそくさと顔を洗いに行った。顔を洗ってあらためて目が覚めた。そして気がついた。そうか、新聞を開いていたのはあいつか。まえもって知っていたんだ。あの「まだまだだねえ」はそういう意味でもあったんだと。
今日は部活の仲間たちと海岸でバーベキューをする。担当分の食材の買い出しを頼んだこともあり、妹も一緒について来る。目あての海岸へは家から歩いてたかだか二、三百メートルだ。すぐ着くと思ったのだが、途中にある踏切で、遮断機が下りてしまった。信号が鳴り、電車の通過を見送るはめになった。駅が近いので、電車はガタンゴトンと目の前をゆっくり通りすぎる。食材が入った段ボウルをもった私たちを、電車の窓から乗客が見おろしている。妹が手を振った。なかには手を振り返す乗客がいる。
「酔狂なひとがいるね」
「圭さんよ」
海岸に行くと、すでに三、四人集まっている。バーベキューのコンロや調理器具を海岸公園の管理事務所から借り出して、もうすでにセットしてある。みんな、食べるときは手際がいい。すぐそばにローラースケートができる路面がある。コースに見立てて入道が滑っている。名字(みょうじ)は三好、だから三好青海入道、ぽっちゃり型の体型に似合わず、優雅な滑りをしている。体重が軸足の親指つけ根に乗っているのでからだが安定している。武道をやって腰や腹が決まると、こんなときにも便利だ。
「スケート靴を持ってきたの?」
「管理事務所にあったんだ。だれかの忘れ物」
「ちょうど良く合ったね」
「中で足が縮こまっている」
「そのわりにはうまい」
「まあねぇ~」
と言いながら脇を通り過ぎていった。向こうにカンが並んでいるから、スラロームをするつもりだろう。
「お~い」
「圭さんだ」
「圭、なんだそれ」
「シャボン玉セット」
「へぇ~、なつかしいな」
みんなが寄ってくる。ああだこうだ言いながら、説明書を見ながら準備し、シャボン玉が飛び始めた。吹かないシャボン玉だ。電池で回るファンが盛大にシャボン玉を噴き出した。ひときわ大きなシャボン玉の表面に、わらっているみんなの、虹色の顔が映っている。
「電動だとあっという間に終わるね」
「打ち上げ花火みたいなもんだ」
「線香花火みたいなシャボン玉もいいけどな」
などと言いながら、ローラースケートを履いた入道と圭が馬飛びをし始めた。
「痛! 脚を蹴るなよ」
「ゴメンごめん」
「スケート靴、脱ぎなさいよ。わたしも跳ばせて」
妹と圭はしばらく馬飛びを交互にし合っていたが、そのうち、妹が圭にまたがったまま止まってしまった。
「重いから降りて」
「いや。ここ、いいんだもん」
「しょうがないなぁ」
「お~い、肉が焼けたぞ~」
「ハイハイ、心は皮膚の実演はおわり」
「いやぁねぇ」
「よし、食うか」
「よし、食おう」
「よし、飲もう」
そのときガタンと大きな音がした。駐車場に入ろうとしたクルマに、道路を渡ってきたサーファーの抱えていたロングボードが当たったようだ。見ているとクルマのドアが開き、ドライバーが降りてきてボードが当たったあたりを見ている。しばらくするとそのまま離れていった。大したことはなかったらしい。波打ち際には何匹かのアシカがボードに腹ばいになって波を待っている。こう眺めると、アシカもトドもオットセイもいる。水族館に行くまでもないなぁと思った。