モノログ

わたしのとなりの小さな星

[photo. Field]

   [登場人物]

  わたし
  じゅんちゃん      わたしの小学校時代からの友達
  圭(けい)            わたしの小学校時代からの友達
  佐藤                 小学校の遊び仲間
  おかあさん         生物学研究所の研究員
  おとうさん         パン職人、ペイント職人など
  しーちゃん         妹
  倉田さん            生物学研究所の研究員
  飛田(とびた)       隣町のガキ大将
  飛田のオヤジさん  隣町の里山で製材所を営んでいる
  中山先生            黒瓢箪(ひょうたん)というあだ名のある英文学教授
  しんさん            フリーランスのパン職人、武道家
  たけさん            生命科学者
  ハルさん            たけさんの友人
  トム    ヨーロッパ素粒子物理学研究所の上席研究員
  おばあちゃん      引退した音楽教師
  かなちゃん         二才児
  ジョンとハーン    モンスターバイクの乗員

目次


(第1幕)

第一場           ぼうず山

   わたしは机に頬杖(ほほづえ)をつき、ぼんやり外を眺めていた。机の上板(うわいた)はあちこち傷だらけだ。肘(ひじ)の下がごろごろしている。たしかそこには川田という名前が彫られているはずだ。

  「立ちあがって。東と西に手をのばして」

  諏訪先生のよくとおる声が木造の校舎一階の教室に響いた。

  「こっちかなぁ」

  すると両腕をつかまれた。

  「そっちじゃない。こっち」

  のばした左手の先にさっき眺めていた窓がある。木枠に入ったそのガラス窓から砂山が見える。頂上がキラっと光った。一つ置いた机の向こうに立った圭(けい)と目があった。右手の指先が窓を指さしている。わたしは左手の親指と人差し指の指先をつけてサインを送った。

  放課後、圭(けい)が声をかけてきた。

  「ぼうず山へ行こう」

  学校が終わると佐藤をさそって砂山へ遊びに行く。山は学校と道路を挟んだ向かいにある。学校の門を出て車の通る道路を渡る。車の流れが続き、信号がなかなか変わらない。

  「渡ろう」と圭が言う。
  「すわっちが見ているぞ」と佐藤が言った。

  すわっちは諏訪先生のあだ名だ。圭は、朝の登校のとき校門の前で、「はい、あと一分。急いで」などと諏訪先生にいわれる常連だ。

  「信号が変わるぞ」

  道路を渡り、細い坂道に入る。すこし下ったところに山へ続く石段がある。山の中腹に小さな社(やしろ)があるのでこの道はいつ行ってもきれいだ。もっとも今は若葉が芽吹くときで掃くのがたいへんな枯れ葉もない。下から見あげると葉の筋が透き通って見える。そよかぜが葉の重なりを揺らし、あいだでチラチラと光が踊っている。まがりくねった石段を登る途中に、古びた、小さなお宮がある。お宮の屋根は細長い長方形の板を重ね合わせた板葺(いたぶき)だ。上のほうは急勾配でよくすべる。屋根のてっぺんから滑り下りて飛び降りる位置を競いあった。けっこうスピードが出るので、着地したあと、前のめりに転ぶこともある。転んだときはいくら距離が出ていても無効だ。だから滑り下りるスピードを足の裏で調節するのがむずかしい。

  ぼうず山の砂は砂鉄やカンラン石や雲母を含み、手のひらの中でキラキラ光った。山のいただきは小さな松林になっている。林の中の様子は学校からはよく見えない。みんなで松の木に登ってもすわっちに見つかる心配もない。木の上の隠れ家で遊んだ。隠れ家といっても松の枝に板きれを渡しただけのものだ。小山から見る家々の屋並(やなみ)や下の道を走る車がおもしろく、みんなで日が暮れるまで遊んだ。夕暮れの赤い空に近所の材木置き場に隠れていたコウモリがバタバタバタと飛び出してくる。

  コウモリも田んぼのザリガニもみんな遊び仲間だ。ザリガニ釣りは小さい子にもでき、おもしろいのでみんなの兄弟姉妹がまざったときの遊びだ。竹の小枝の先に糸を結びつけ、反対のはしに裂いたスルメを結(ゆわ)えつける。水の流れる田んぼの畦(あぜ)で草かげに糸をたらして上下するとおもしろいようにザリガニが釣れる。小さいケンちゃんが、釣ったザリガニを糸から外そうとしているが、ハサミを広げたザリガニをつかむことができない。
  そんなとき隣町の飛田(とびた)のグループがやってきた。飛田はガキ大将でこの辺りの最年長だ。隣町の中学校に行っているので普段、学校で顔を合わすことはない。中学生ともなると背も高く、目も声も大きいので威圧感がある。

  「おい、邪魔だ。どっか行け」

  くやしいがしかたがない。

  「くわばらくわばら。君子(くんし)危(あや)うき」

  圭がつぶやいた。おじいちゃんからの受け売りだろう。圭はときどきおもしろいことを言う。田んぼは線路をこえた隣町にある。隣町の領分なのでみんなおとなしく学校の方へ戻り、今日は解散だ。

  帰り道、ただ帰るのはおもしろくないのでひとり砂山に寄ると、お宮の石段のかげから白い蛇が出てきた。はじめて白(しろ)蛇(へび)を見た。固まったように動けなかった。一瞬ののち、一目散に石段をかけおりた。  「白い蛇は神社の神さまの使いだ。神社ができたときからいるんだ」  と圭のおじいちゃんが言っていたからだ。お宮の屋根にのぼって騒いだバチが当たってはたまらない。なんだかわからないものは怖かった。しばらく山道を走り、裏山の中腹にある笹やぶに飛びこんだ。

  笹の中をザワザワとしばらくかき分けていくと小さな原っぱに出た。ほとんど三つ葉のクローバーに覆われている。その敷きつめられたような緑のところどころに小さな砂地が見える。そこでは穴からアリが忙しそうに出入りしている。あちこちにクローバーの白い花が咲いている。緑のジュウタンのうえにあおむけになり、「ふぅっ」と息をついた。ここは笹の葉を鳴らす風の音もなく、まるでときが止まったように静かだ。青葉を透かして日の光が揺れている。

  クルクルと舞い降りてくるものがある。まるで小さなヘリコプターの羽根が回っているようだ。気がつくとあっちこっちにそれが落ちている。竹とんぼに似ているが左右二枚の羽根の根元に種が付いている。からだを起こして原っぱを見まわすと東南のすみにその木があった。大きい楓(かえで)だ。たくさん、ヘリコプターを飛ばせそうだ。また落ちてきた。見ていると風がなくても、クルクル、スーっと流れるように飛んでいく。飛んでいった先にハルジォンやヒメジォンの白やうすもも色の花が揺れている。その葉の上でなにかが動いた。立ちあがって見に行く。バッタだ。長い顔をあちらに向けて知らん顔をしている。ここはバッタたちの世界で、わたしはお客さんだと思った。見渡すとあちらこちらに花が咲いている。ひときわ目立つ白い花の群れがある。馬酔木(あせび)の木だ。白い花にマルハナバチが飛んできた。蜜を吸っている。酔っぱらわないのかな、そうだとしたらマルハナバチはすごいなと思った。


  学校でじゅんちゃんにこの話をすると、「図書室に植物図鑑があるから調べてみよう」と言う。図書室は教室のある校舎から裏庭につき出した渡り廊下の先にある。林のなかの別館だ。いつもシンとしている。新しい本や古い本のにおいが入りまじっている。今日はあまり人がいない。このあいだは「ツタンカーメンの秘密」を読んだ。黄金のマスクの写真がすごかった。大きな目がじっと見つめてくる。ツタンカーメンの呪いはほんとうにあるのだろうか。

  ツタンカーメンの本棚と通路を挟んだ壁側に図鑑の棚がある。「樹木図鑑」というのを見てみる。巻末の「あ」の索引をひき、あせびのページを見る。葉に毒があり、奈良の春日山に馬酔木が多いのはシカが食べないからだと書いてある。なるほど、花は大丈夫なのか、と思った。同時に「マルハナバチはすごい」がちょっとしぼんだ。でもすぐに「マルハナバチは偉い」と思った。じゅんちゃんはきっとこのことを知っていたのだろう。じゅんちゃんは賢い。でもいつも「調べてみよう」と言う。「知っているなら教えてくれればいいのに」と言ったら、「自分で調べたほうがよくわかるし、忘れないよ」ということだ。なるほど。自分で納得をするのでよくわかる。

  ときどきひとりでこの小さな原っぱに来るようになった。夏のむせ返る草いきれの中、砂地のアリが忙しそうだ。アリの列がずいぶん遠くまで遠征している。行くもの、帰るもの、列をはみ出してウロウロしているやつがいる。圭みたいだなぁと思った。ときおり涼しい風が吹く。そんなときは「ふぅ、いい風だなぁ」と思う。

  原っぱのまわりにはいろいろな木がある。シイ、カシ、ナラ、タブ、カシワ、去年の秋に落ちたドングリが草のあいだに残っている。それぞれに形がちがう。秋になると落ちたドングリを拾い、ドングリのお尻につまようじを刺し、コマにして遊んだ。カシワの実は丸いのでよく回る。コナラの実は背が高いのでちょっとむずかしい。こんなにたくさんの実が落ちているのに赤ちゃんの木はそれほど見ない。枯れ木や倒木がないからかもしれない。それとも目につかないだけで、クローバーの陰にこっそり隠れているのかもしれない。ドングリは動物に食べられたり、運わるくそのまま土にかえったり、子どものコマになったりする。木たちは「損したなぁ」と思うのだろうか。たくさん落ちている年と少ない年がある。自分で加減している。ドングリの少ない年はゾウムシの姿も見ない。ドングリの中によく入っている虫だ。動物たちも減るのだろう。ドングリは虫に食べられないように、多くなったり少なくなったりしているようにも思える。ドングリが少ない年はゾウムシがいない。いいコマができるのだ。

  コナラの枝が風にゆれた。こんないい風がふくときがある。風は季節の前ぶれだ。海が近いので、朝と夕方で風の向きがかわる。陸風、海風だ。原っぱの上で風がまわっている。

  笹やぶが揺れ、風の中をなにかがくる。あわてて反対側の笹やぶにしのびこむ。なんだろう。注意して耳をすます。原っぱに入ってきたようだ。笹のあいだからのぞいて見る。なんだ、小さなおんなの子だ。鼻が上を向いている。なにかを見上げている。見上げたが何もない。気になったがなんとなく近づきがたい。そっとそのようすを見ていた。

おんなの子は馬酔木のまわりを飛び回っている一匹のマルハナバチをじっと見ていた。マルハナバチは馬酔木の前にきたり、後ろにまわって見えなくなったりしている。そのとき、おんなの子がつぶやいた。

  「今って、すぐ終わっちゃうんだから」

  ハチの羽音が消えている。風のそよぎ、強い日の光もなくなった。世界が変わり、うすぼんやりとした光が満ちている。声が聞こえる。

  「木や草にも思いはあるの?」

  おんなの子はじっとしている。彼女の声だろうか。もうじっとしていられない。

  「あの・・・」

  おんなの子がふり向いた。大きく開けた目が見つめている。なにか言いながら、その姿がだんだん薄くなっていく。眠りから覚めるときのように、頭の中の闇が切れて、銀河が拡がった。日の光が明るくなった。風のそよぎを感じる。コナラの枝が風に揺れている。夏のむせ返る草いきれの中、砂地のアリが忙しそうに動きまわっていた。わたしは何がおきたのかわからなくて立ちすくんでいた。

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第二場           キノコ狩り

  その後なにごともなく一週間がすぎた。その日の朝、あれは何だったんだろうかとぼんやりと思っていると圭がやってきた。野球帽をかぶり、リュックサックを背負っている。急いでいる風で、おちつきがない。

  「キノコを採りに行こう。おじいちゃんが連れていってくれるってさ」
  「よし。行こう」と即決する。願ったりかなったりだ。

  ぼうず山の裏の谷伝いに奥の山へ入っていく。この山に比べるとぼうず山はちょっとした丘に見える。実際、ぼうず山は奥の山々の前山、里山だ。裏の山にはふもと近くにトチやブナの広葉樹、その上にはスギやナラの混交林が広がっている。ブナ林の根もとはキノコの宝庫だ。でも普段、子どもたちがこの山に入って遊ぶことはない。山はふところが深く、怖いこともあるが、山には山の持ち主がいて話を通しておく必要があるからだ。圭のおじいちゃんがこの山の持ち主である飛田のオヤジさんに話を通しておいてくれた。

  飛田の家は製材所でこのあたりの山をもっている。途中、ふもとにある製材所に立ち寄った。皮つきの丸太が積み上げられている。製材所の建屋の中では機械がグォングォンと音をたてて回っている。圭のおじいちゃんは飛田のオヤジさんとなにか話をしていた。オヤジさんが住居(すまい)に向かい叫んだ。しばらくすると中からガキ大将の飛田が出てきた。話を聞いてうなずいている。飛田がこっちへやってきた。黒い顔に白い歯が目立って見える。大きな声で、

  「よぅ。オヤジがいっしょに行けって。よろしくな。今日はケンカはなしだ」

  みんな黙ってうなずいた。

  谷戸道(やとみち)を歩く。曇ってきたのでそれほど暑くない。カモのつがいが小川の浅瀬でくちばしを胸にうずめて丸くなっている。ツバメが「チッ」と鳴いて高く舞い上がり、スイっと下りてくる。曲がりくねった小川の土手に沿ってアオサギが飛んできた。縁が黒い風切羽根を広げた姿は1メートルはある。すぐわきを通りすぎる。うしろから見るとアオサギの灰色のからだからのびる細く長い脚(あし)が目にとまる。グライダーのように器用に土手の曲線にそって飛ぶ。スターウォーズの一場面を思いだした。爆弾を投下するためにデススターの表面の溝の中を飛ぶスターファイターだ。アオサギが水面まで急降下した。魚を見つけたのだろう。

  小川からそそぎ出る用水路のわきを通ると一匹のシマヘビを見つけた。一メートル以上ある。

  「これじゃぁ、アオサギは手が出ないか」  と飛田が言い、手でヒョイっとその蛇を用水路に投げ入れた。

  「アオサギと余計なケンカになるのは見たくないからな」

  意外だった。飛田にそんな優しい面があるなんて。  しばらく小川にそって歩く。土手には小さな花がまばらでもなく、ギッシリでもなく咲いている。草の花だ。名前があるんだろうなと思った。でも聞いたことがない。ただの草の花だ。ここらの人たちが、この花の名前を忘れてからどのくらい経つのだろうか。そんなには経っていないような気もする。

  突然、瑠璃(るり)色の光が目の前を横ぎった。

  「カワセミだ」
  「あの石の上にとまった」

  「なんだ。カワセミじゃないよ。お菓子の袋だ」
  「ハッハッハ」

  ガキ大将の飛田が大きな声で笑った。

  小川の上流を伝い、クレソンの茂る小さな湿地を過ぎると森に入る。ブナの若葉を透かし、やわらかな光がふりそそいでいる。折れた木の枝や切られた木の株がある。このあたりは製材所が管理している森だけあって明るい。飛田が背中のザックからシートを出して地面に敷いた。

  「寝そべって見るんだ」

  うつ伏せになって地面を眺めている。

  「やってみろよ」

  みんな同じように隣に並んだ。地面をおおう枯れ葉が朝露(あさつゆ)の雫(しずく)に濡れている。そのひとしずくひとしずくの表面にたくさんの森が映っていた。朽ちた木のあちこちが白や黄色に染まっている。一センチほどのピンクの玉が付いているものもある。

  「粘菌だよ。キノコの友達だ」

  目がなれてくると、枯れ葉に隠れた朽ち木のかけらから小さなキノコが顔を出しているのが見える。

  「もう少し先へ行ってみようか」  と飛田が言った。

  大きなブナが林立する谷間に入った。川のせせらぎが聞こえる。

  「ひゃぁ、すげぇ」

  圭が声をあげた。ここは営林署の手が入っていないらしく鬱蒼(うっそう)としていてうす暗い。倒木があちらこちらに転がっている。みんなもうシートもなしに地面に頬を近づけて見ている。キノコの森が目に飛びこんできた。シイタケ、マイタケ、シメジ、みんなおなじみのキノコたちだ。

  「大きいのだけにしておけよ」
  「ウン」

  みんな柄(がら)にもなく素直だ。圭が飛び出していく。みんな、しばらくキノコ採りに夢中だ。ときどき歓声があがり、鳴いていた鳥の声がやむ。

  帰り道、小川の上流をくだり、クレソンの茂る小さな湿地に出た。

  「ちょっとクレソンを取っていくから先に行ってて」
  「ヘビに食われるなよ」

  飛田め。でも不思議といやな気にならない。心配してくれているのが伝わってきた。クレソンはおかあさんがよく料理に使う。喜ぶかなと思った。採ったクレソンをザックに入れて水辺をのぞき込んでいるとさざ波が立った。風が回っている。前にも感じたことのある気配がする。顔をあげると小さな女の子が森の方を見ていた。あの子だった。

  「おーい」

  声がした方を振り向くと飛田が笑って手をふっている。

  「遅いから気になって来た」
  「あの子が…」

  指さした先にはみどりの森がしめやかに広がっていた。

  「おまえ、なんかひとりでボケっとしていて変だったぞ」

  と言う飛田の声をうわの空で聞いていた。足もとで死んであお向けになったコガネムシにアリが群がっている。

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第三場           図書室

  放課後の図書室はがらんとしている。改修中の理科室にあった骸骨と人体の模型が廊下のすみに置いてある。開け放った窓から気持ち良い風が吹き抜ける。わたしはじゅんちゃんと席を並べ、キノコ狩りで見た、あのピンクの玉のことを調べていた。マメホコリと呼ばれる粘菌の子実体(しじつたい)というものらしい。子実体は胞子を飛ばす器官で、それ以外のときの粘菌はアメーバのような形をしている。朽ち木を染めていた、あの白や黄色のペンキのようなものがそのアメーバのような変形菌というものだったらしい。粘菌は植物とも動物とも違うと書いてある。こんな不思議な生きものがいるんだと思った。粘菌の研究者として有名だった南方熊楠(みなかたくまぐす)という人が昭和天皇にマッチ箱に入れた粘菌を贈ったと書いてある。わたしだったら贈られても困るなと思った。でもマッチ箱というところでじゅんちゃんとふたりで顔をみあわせてニヤっと笑ってしまった。天皇にマッチ箱を渡す熊楠先生がほほえましかったのだ。じゅんちゃんが言った。  「天皇って、独りぼっちでかわいそうだね」

  じゅんちゃんに聞いてみた。  「ひとが目の前で消えたことがある?」  「あるよ。それで?」  「え~と・・・なんでもない」  じゅんちゃんはたいがいなことでは驚かない。ましてわたしのこんなもの言いには慣れている。このときもそう言っただけだ。わたしは拍子抜けしてあとの言葉を飲みこんだ。じゅんちゃんの目が笑っていた。

  そういえば、ふり向いたときに見たあの子の目はツタンカーメンみたいだったなぁと思った。ツタンカーメンの黄金のマスクは何千年ものときを旅してきた。ふと、あの子もどこか遠くから旅をしてきたのかもしれないと思った。図書室の窓から、ニレの木々の梢がそよかぜに揺れているのが見える。葉のみどりがうすく濃く、光を放っていた。

  「またぼんやりしてる」  じゅんちゃんの声がした。  「ひとが目の前で消えたことがあるよ」

  たちまちわれに返った。  「どこで?」

  「夢の中で」
  「な~んだぁ」
  「そうじゃないんだ」
  「何がそうじゃないのさ」
  「まじめな話さ」
  「ツタンカーメンの目をした子?」
  「そう。ツタンカーメンの目をした子」
  「話をした?」
  「あの本を読んだ晩に見たんだ」

  そう言って本棚から取り出してきたのは金魚鉢の宇宙を述べた読みものだった。ステファン・ホーキングとある。キョトンとしていると  「ブラックホールは好きだろ、読んでごらん、おもしろいから」  そう言うので司書のおねえさんから借りて読んでみた。

  宇宙の話はおもしろかった。ブラックホールはあらゆるものを吸いこみ、光さえ入ったら出てこないそうだ。1974年にホーキング博士がブラックホールに温度があり、温度による放射をおこすことを示した。光さえ出てこないのになぜ電磁波である熱の放射があるんだと思った。ブラックホールは量子力学でも十分説明できない。重力に対する反重力があることも予想されると書いてあった。

  その後、量子力学や相対性理論をつなげる考え方がいろいろ出てきた。超ひも理論やM理論だ。超ひも理論は原子を構成する粒子が、振動する特別な性質をもつひもだと考えるものだ。ひもはふるえるので粒子が波になったわけだが、これは量子力学では当たり前のことだ。わたしはレーザービームにも興味があったので、光が波と粒子の両方の性質をもっていることは知っていた。特別な性質だという超対称性というのがよくわからなかった。

  M理論の方はミステリー、メンブレン(膜)などの英語の頭(かしら)文字を意味している。ブラックホールは理論上は時間と空間の境の面でおたがいにからみあうたくさんの粒子と同じで、この境の面をメンブレンと言うらしい。でもミステリーと言われるだけあって不思議だった。だってM理論の世界では同じ物理の法則にしたがう大きな世界(時間と空間)と小さな世界が一緒に存在するというのだ。

  超ひも理論からはたくさんの宇宙がある可能性があり、ブラックホールやビックバンのようなミクロな宇宙に巨大な質量が閉じこめられた時空間を説明するために、別の物理学が必要な世界があるかもしれないということだ。一緒だったり、別だったり、ほんとうにミステリーだ。こんがらかってしまう。

  超対称性の存在をしめす実験結果はまだないということだった。スイスのジュネーブにあるCERN(ヨーロッパ素粒子物理学研究所)の大型ハドロン衝突型加速器LHCで、超対称性の証拠がみつかるかもしれないと書いてある。これはたのしみだ。

  「金魚鉢」とはそれぞれの量子理論を金魚鉢に託して、金魚鉢を通して世界をみているということらしい。世界は何通りにも見えるということか。その意味はむずかしい。やっぱりミステリーだ。なんだか夢に見そうだ。

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第四場           夢

  尾根道を歩いていました。空はすこし曇っていますが明るい尾根道です。

  「おとぉさぁん、もう疲れちゃった」
  「そろそろ階段を探しておりようか」

長いなが~い階段があります。下に小さく車が見えます。そうだ、あの車で来たんだ。眠気(ねむけ)が襲ってきました。

  「おとぉさぁん、眠っちゃうよぅ、どこへ行くの、わたしって眠るとどこへいくの?」

  幼稚園で、みんなとお遊戯をしていました。手をつないでグルグル回っています。回るたびに庭の大きなカエデの樹もゆれます。一回、二回、三回・・・

  「今って、すぐ終わっちゃうんだから」

  四回、五回、眠りが襲ってきます。

  駅からの帰り道。もう日が落ちてあたりは薄暗い。前の方、左側に竹やぶがあります。竹やぶの中になにかがいる気がします。風が吹いてきました。


  夕方のひと気のない浜辺。理科室にあった骸骨と人体模型を相手にサッカーをしている。骸骨がわたしの蹴ったボールをトラップしてその拍子にバラバラになった。うしろで赤い大きな太陽が山際(やまぎわ)に沈んでいく。

  駅の方へ続く道が真っ直ぐに延びている。道の両側は田んぼだ。空は重苦しい灰色で、いつ雨が降ってきてもおかしくない。ずいぶん歩いた気がする。のどがかわいて道のわきにある水がめを覗(のぞ)くと、ボウフラがぷくぷくと浮いたり沈んだりしていた。しばらく行くと右側に竹やぶがある。竹やぶの中になにかいる気がする。風がまわっていた。


  わたしの前に、おんなの子がいた。

  「こんにちは」
  「あぁ、こわかった。なにかとおもった」
  「おどろかせてごめんなさい。ここはどこ?」
  「ここはあの山のふもとの街よ」

  どこかなつかしい感じがした。なだらかな山並みが向こうに見える。農家の納屋らしいものが右手に見える。木製の大きな扉(とびら)の前に等身大の犬の像がおいてある。その脇に数十年前のモーリスのレプリカ車が止まっていた。黒いシェパードの像はモーリスを守るエジプトのアヌビス神のようだ。しばらく一緒に歩いていく。日が明るくなって気持ちのいい風が吹いている。お散歩びよりだ。わたしたちは口をきかなくても、おたがいに満ちたりた気分でいた。相手がいることが気にならなかった。住宅街に入った。庭に黄色いユリの花が咲いている。黄色の中にいくつかの黒いオシベの線が浮かんでいる。人が向こうから歩いてきた。スマホを見ている。ぶつかりそうなので道をゆずった。スマホを見たままスタスタ歩いて行ってしまった。十字路にきた。みんなスマホをのぞきながら歩いている。

  どこからか声がした。

  「おはよう」

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第五場           生物学研究所

  「おはよう」

  「クレソンありがとう。ヨーグルトとジュースは自分で出してね」
  「うん」
  「そのパン、あたらしい小麦でつくったの。どうかしら」
  「夢なんとか?」
  「ゆめごこち」

  母は生物学研究所に勤めている。今は新しい種類の小麦をつくっているらしい。ゆめごこちは寝ぼけまなこの今のわたしにはぴったりな小麦の名前だ。テーブルに座り、サンドイッチを頬張る。

  「クラストがパリっとしていてクラムはむっちり、麦の香りもする」
  「あら、そう。おほめにあずかってどうも。ずいぶん専門的になったわねぇ」
  「鍛えられているからね」

  こういう気のおけない会話でいつもの朝が始まるのはいいことだ。

  「ところでレーザービームさん、今日はLEDで育てた苗を公開する日だけどどうする」
  「このあいだ話していた青色LED?」
  「そう」
  「行くいく」

  サンドイッチを頬張り、ジュースを流しこんで、先に出た母がいる研究所へ出かけた。わが家から歩いても十数分のところだ。ヨーグルトを食べなかったので、後でまたなにか言われるだろう。わが家のヨーグルトは自家製だ。母がどこからかもらってきたヨーグルトを、新しいミルクの入ったビンにつぎ足しつぎ足し、わたしがもの心ついてからずっと作り続けている。だから、びんの中のヨーグルトが減っていないのはすぐにわかってしまう。帰ってから食べようと思う。

  研究所に入ると入り口にサインポストが立っている。赤の矢印の下に「LED人工光型植物工場と光質制御モデル公開中」と書かれた紙が貼られている。ちらほらと何人かの人が矢印の方向に歩いていく。背広姿のサラリーマン、スニーカーをはいた学生、近所の農家のおじいちゃんなど色々な人がいる。庭の木立が点々と緑の葉かげを広げている。 見ているとサラリーマンは日陰を選んで歩いている。背広を脱げばいいのにと思った。農家のおじいちゃんは大きな帽子を被っている。コナラの木肌に触れてみる。さらっとしている。耳を付けてみた。樹が水を吸いあげるゴーという音が聞こえたような気がした。

  研究室には植物工場のモデルラックがあり、説明用のポスターとディスプレイが流れている。その説明によると植物は成長するための光の波長と形態変化するときの波長が違うらしい。形態変化とはさなぎがちょうになるように、植物にも背が高くなるときと身体(からだ)が太るときがあるということだ。苗のときはヒョロヒョロと高くなるよりも太ったほうがいい。そのときに青色LEDや赤色や遠赤外のLEDが役にたつという。植物は緑色をしているのに役にたつのは青や赤のほうが多いらしい。おもしろいなぁと思った。ウロウロしていると声がした。

  「どう。おもしろいものはあった?」

  ふり向くと倉田さんがニコニコしている。

  「あ、どうも。母がいつもお世話になっています」

  倉田さんは母の同僚のひとりだ。

  「いい娘(こ)がいるんだけど、どう? つきあってみない?」

  と、ときどきわたしの母に言われている。倉田さんはそのせいか

  「お世話になっているのはこっちさ。よかったらなにか飲みにいかないか」
  「いいの?」
  「いいさ」

  ということで、わたしたちはそうそうに研究室をあとにした。ふたり肩を並べて、いや正確にいうと肩とおなかを並べて中庭に面したレストランに入った。さすがにまだ早いこの時間はすいている。

  「なにがいい? このあいだのキノコのお礼だ」
  「なんでもいいの?」
  「遠慮なくどうぞ」
  「じゃあ、豆大福とお茶」
  「それはまたしぶいね」

  と言い、倉田さんはコーヒーを頼んだ。ちょうどよい機会なので常々(つねづね)思っていた疑問をぶつけてみた。

  「倉田さん、遺伝子組みかえはしないの?」

  遺伝子組みかえは世界的な花形技術だ。世界的には、と言ったほうがいいのかもしれない。ここの研究所ではしていない。なぜだろうと思っていた。日頃の態度が生意気なせいかもしれないが、母に聞いてもまじめにとりあってくれない。倉田さんならまじめに答えてくれるかもしれないと思った。

  「遺伝子組み換え?  ノックアウト遺伝子調査に使っているよ」
  「どういうこと?」
  「遺伝子一つ一つの影響をみることさ」
  「ポマトはつくらないの?」
  「作っていないよ」
  「どうして?」

  「きみはいつもどこにいると思う?」
  「えっ」

  思いがけない質問だったので思わず口まで持ってきていたチーズケーキを落としてしまった。豆大福がなかったのだ。用意しておいてくれるようウェイターの学生に頼んだら、今度来るときには前もって言ってくれれば買っておきますということだった。

  「ここにいるけど」
  「ごめんごめん。じゃぁ、きみ、という意識はどこにあると思う?」
  「うぅぅん、頭の中かなぁ」
  「じゃぁ眠っているときは、きみという意識はどこにあると思う?」
  「うぅ。意識はないなぁ」

  しばらく考えたが皆目見当がつかない。とうとう倉田さんに聞いてみた。

  「倉田さんは?」

  倉田さんはしばらくじっとわたしの顔を見ていた。

  「わからない、というのが答えかな」
  「えぇぇ、ずるい」
  「植物にも意識があると思うかい?」

  そうかそういうことかと思った。倉田さんは草や木にも眠っている意識がないのかとわたしに聞いているのだろう。

  「木や草には命があると思うよ」
  「ぼくもそう思うんだ」

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第六場           雨

  わたしは雨の日が嫌いじゃない。図書室の机を前に頬杖をつき、ニレの木々の梢(こずえ)を濡らしている雨を眺めているのが好きだ。ぼうず山への坂道でしっとりと濡れている石畳を歩くのも好きだ。雨の日の草木や土には独特な匂いがある。生きてるよ、と言っているようだ。アジサイの葉に乗ったカタツムリだけでなく、みんなは好きではないようだけれど、道に出てきたミミズや土の上に現われたナメクジも許せる気になる。夏の日なたの道路の上に残された干からびたミミズには乾いた心しか感じないのに。雨は乾いた心にうるおいを与えてくれる。みんなと一緒にいるときも楽しいけれど、雨は独りでいることも大事だと気づかせてくれる。物思いにふけっているとまたいつもの疑問がわいてきた。

  「じゅんちゃん、眠っているとき心はどこにあると思う?」
  「始まったね」

  じゅんちゃんが、さぁ始まるぞ、という感じにほほ笑んだ。長い両腕を頭のうしろで組むと、

  「ちょっと難しいね」

  と言いながら立ちあがり歩いて行った。図書室の入り口にあるパソコンの蔵書検索システムをいじっている。

  「心ねぇ。身体にも心があるんじゃないのかなぁ」
  「脳も身体の一部だものね」
  「と言うか、あ、あった」

  じゅんちゃんは図書室の棚の番号を見ながら中にある本を探していたが、やがて何冊かの本を抜き出した。「生命の逆襲」 福岡伸一、とある。

  「ときどき番号順に並んでいない本があるんで手間がかかるんだ。ハイこれ。参考になるといいけど」

  ポンとわたしに手渡した。例によって自分で考えなさいということだろう。そうしないとわからないものね。参考になるかならないかは自分次第だ。雨がやんでニレの樹の葉に曇り空を通った光が当たっている。図書室の窓をフレームにしてみるとフェルメールの静かな世界みたいだ。木々の梢をわたる風のそよぎがとまっている。トンボがスッと横ぎった。

  本を読むと、古今東西の人たちから自由に意見を聞くことができる。しかし本を読むということは自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだと言う人もいる。世界を自分の肌で直接に感じとることが大事だと言いたいのだろう。でも著者にとっては結論でも読者にとっては出発点だ。とりあえず読んでみた。おもしろかった。生命とは自己複製を行うシステムであること。動物の脳の信号は身体の感覚と切っても切れないものであること。人は「お変わりありませんか」と挨拶するが数年もすれば分子のレベルでわたしたちの身体(からだ)はほとんど入れ替わっていて、数年前のわたしの身体はないこと。コンピュータにあるメモリーのようなものは生きものにはないということも以外だった。記憶は花火のあとの残像か、そのときどきに眺める星座のようなものだそうだ。記憶は脳の神経細胞どうしの信号が伝わりやすくなったもの、一度通った道が二度三度と通るとどんどん通りやすくなるようなもの、具体的には脳の神経細胞であるシナプスの樹状突起が大きくなる。この大きさが数分単位で変化していることが観察されている。シナプスの可塑性というらしい。その通りやすくなった道たちの集まりが記憶になるみたいだ。記憶が星座のパターンを眺めるみたいなものというのは、道たちの集まり模様と同じということらしい。心もそのときどきの星座のようなものかなぁと思った。


  次の日の朝、

  「おはよう」

  おかあさんの声がする。ベッドから出てキッチンに入るとテーブルの上にたっぷりのクレソンとニンジンのアボガドベーコンサンドがのっている。今日は横にヨーグルトの入ったカップが置いてある。

  「オレンジジュース? ミルク?」
  「ミルクとヨーグルトは原因と結果だからねぇ」
  「製品と原料でしょう」

  あぁ、きょうの朝の始まりは前途多難を感じさせる。きのう、ずいぶんたくさんの本を読んだので脳の神経細胞は忙しそうだ。一所懸命に道を作っている感じがする。テーブルの上のクレソンをボヤっと眺めていると目の前に緑が拡がった。緑の向こうになだらかな山並みが見える。

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第七場           スマホ

  目をあげると、前におんなの子がいた。

  「おはよう」
  「おはよう」

  窓から緑色のグラデーションに包まれたなだらかな山並みが見える。おんなの子が聞いた。

  「オレンジジュースがいい?」
  「おとうさんは?」
  「もう出かけちゃった」

  しーちゃんが言った。そうだ、しーちゃんだ。記憶の道が通じた。妹だ。

  「自分自身を取り戻すんだって」
  「なに、それ」
  「おとうさんが言ったの。スマホを解約して自分を取り戻すんだって」
  「なんで」と思った。

  アボガドベーコンサンドがおいしかった。ヨーグルトにイチゴジャムをのせた。ついでにバナナも入れた。エネルギーの充填だ。ぐちゃぐちゃした頭の中が少しずつ晴れてきた。

  街に出るとみんな忙しそうに歩いている。歩きながらスマホを見ている。スマホを見たままスタスタ歩いている。スマホを見ながら自転車に乗ったり、車を運転したりする人もいる。駅の向かいのホームを見るとスマホを眺める人たちの一覧が展開している。ここではスマホはまるでミヒャエル・エンデの描いたモモの灰色の男達のようだ。
  モモはドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデが書いた物語(ものがたり)だ。灰色の男達は

  「時間を効率よく使うとお金が儲かります。裕福な生活ができますよ」

  と言って人々と契約し、契約した人の時間を吸いとってしまう。吸いとった時間を凍らせて、地下の大きな金庫のような部屋に保管している。その「死んだ時間」をタバコにして吸うことで灰色の男たちは生きている。そうして人々はなにもわからずにあくせく働くことになる。なぜ心が忙しいのかも考えられなくなっている。忙しさはみんなの心を出て街の空気を満たしている。モモの物語はどうしたらみんなの「死んだ時間」を生き返らせ、みんなの手に取り戻すことができるのかというものだ。エンデはそのあとがきで、

  「わたしはいまの話を過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんです」

  と言っている。歩きながらここではまったくそのとおりだと思った。

  その日の夕方のこと

  「おとうさん、スマホを解約したの?」
  「うん」
  「不便じゃないの?」
  「不便なことが大事なことだって気づいたんだ」
  「どういうこと?」
  「たいくつなときどうしてる?」
  「ぼんやりしてる」
  「それが大事だと思ったんだ」
  「ぼんやりすることが?」
  「ぼんやりしているときに頭が働いているんだよ」
  「え、そうなの?」
  「ひとりでいるときにしか湧いてこないチカラがあるんだ」
  「なにそれ」
  「アン・モロー・リンドバーグというひとが言ったことばさ」
  「独りでいるときにしか湧いてこない力ってなに?」
  「自分を見つめて取り戻すチカラさ」
  「モモみたいだね。モモは相手の話をじっと聞いてくれてその人に自分自身を取り戻させるんだ」
  「モモはわたしの中にもいるのさ。きみの中にもいる」
  「そうか。でも友達がいなくならない?」
  「そうだね。でも自分を見つめているとゆっくりと新しい友達がくるよ」
  「え、どうして?」
  「自分のことをわかっている人はほかの人の気持ちもわかるからさ」
  「ふ~ん、ボケっとしているのもいいのかなぁ」
  「あははは。きみにうってつけだね」

  自分を見つめたり取り戻したりするのは難しい。自分は何がしたいのかがわからないから。それなら自分は何がしたくないのかから始めればいいと思った。する自由やしたい自由は問題が多い。ほかの人のしたくない自由を受け入れないから。でも自分がしたくない自由ならそんなことはない。これならわたしにも出来そうだ。

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第八場           仕事

[カラスウリ]   土曜日の朝、おとうさんが仕事にいくというのでついてきた。サンダルをペタペタいわせながら、だれもいないテニスコートの脇を通り過ぎ、歯医者さんへの道を右へまがる。アスファルトと塀のあいだにユリが2本咲いていた。材木屋のブロック塀越しにまだあおいカラスウリの実が飛び出ている。もぎとって見た。斑入りの黄緑の中に縦に数本、白い縞が走っている。縞は上にいくにつれて黄緑におされて黄色っぽく見える。ふと横を見るとおとうさんが見ている。

  「青い空にだいだい色もいいねぇ」

  その声を聞いて悔やむ気持ちが湧いてきた。青い空に浮かぶだいだい色のカラスウリ。取ってしまったものはそれで終わりだ。欲しくもないのになんで採ったんだろう、不思議な自分。

  田んぼにそった川ぞいの道にくる。川からかもが四羽飛びたった。一羽のアオサギが田んぼにスッと立っている。

  「きょうはなに?」
  「市庁舎の壁のペンキぬり」
  「高いところ?」
  「みんな気をつけないとね。きょうの仕事は電気料金の支払い代わりさ」
  「そうかぁ」

  ここではあの人の仕事ぶりには感心するねとか、あの人に任せれば安心さといった噂(うわさ)を聞いて仕事を頼み、また頼まれる。おとうさんはいくつもの仕事ができる。ほかの人達もたいていそうだ。もちろんお金をもらう仕事もあるが、そうでない仕事も多い。

  「ねぇ、おとうさん。どうしてお金をもらわないの?」
  「そうだね。きみの仕事は何だい?」
  「うぅぅん、仕事はないかな。いや、ときどきだけどお使いの手伝い!」
  「仕事が自分にくれるものは何だろう?」
  「お金!」
  「それだけかい? 朝起きてなにもすることがなかったら?」
  「キノコ狩りにいく!」
  「それはいい考えだ。キノコ狩りは遊び? それとも仕事?」
  「えぇっと、どっちでもないかなぁ」
  「そう、どっちでもないものがあってもいいんじゃないかなぁ。遊びも仕事も経験ができたり、腕が上がったり、知りあいができたり、やりがいになったり、した後の満足感があったり、人として成長できたり、社会的な安心感があったり、色々あるね」
  「色々あるね。アオサギは生きることが仕事かな。おとうさんはペンキ屋とおもちゃ屋とパン屋とえぇっとそれから・・・、どれがいちばん好きなの?」
  「みんな好きだよ。でもパン屋かな。いちばん驚いてくれるからね。喜んでくれるし、なによりおいしい!」
  「そうだね」
  「目に見えるものだけじゃなくて、目に見えない色々なものがありそうだね」
  「仕事かぁ。やってみないとわからないな」
  「うまくいかないと思っても次のチャンスに気がつくかもしれないよ」

  おとうさんが市庁舎の壁のペンキ塗りをしているあいだ、市庁舎ってどんな所か見回ってみた。以外に小さい。コンピュータのLEDランプがあちこちで点滅している。一階に戻ると、カウンター越しに話をしているひとの足元で、幼児がフロアに何か描いていた。市庁舎を探検するのにも飽きたのでひとりで帰ることにした。

  夏の日はまだ高く、山並みの上に雲が沸き立っている。前庭の桐の木の影が赤レンガの石畳の上に落ちて、根のまわりの浮き上がった所に落ちた影が、ぐにゃりと曲がったダリの絵のようになっている。田んぼにそった川沿いの道にくるとアオサギが一羽、長い首をくの字に曲げて、田んぼにじっと立っている。独りぼっちでアオサギは寂しそうだなぁと思った。上空の強い風に、川筋に並んだコナラの樹の先がメトロノームのように振れた。嵐のようなその振れかたを目が追っていた。

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第九場           嵐

  夕方テレビをつけると天気予報が明日は嵐になる、風雨が強まるので注意してくださいと放送している。どうりでコナラの樹の先がメトロノームのように振れていたんだと思った。嵐と聞いてレイ・ブラッドベリの「十月はたそがれの国」の中の風のファンタジイを思い出した。怖い気持ちはどこから来るのだろうか。不安や恐怖といったものの根元はなんだろう。まえに嫌な思いをした記憶? 失敗するのではないかという思い? 先が見えない不安? 、過去や未来がなかったら不安はないような気がする。ひと以外の生きものにも怖いものがあるんだろうか?

  「ねぇおかぁさん、小麦にも怖いことがあるんだろうか?」
  「あるんじゃない。大きくならないと切ってしまうわよって言うとちゃんと大きくなるから。あなただけよ、怖いものがないのは」
  「怖いものはあるよ。  おかあさん」
  「あら、そう。認めてくれてありがとう。でもどうして?」
  「怖いっていう気持ちはどこから来るのかなぁと思って」
  「それで?」
  「嵐の中でもアオサギは怖くないのかなぁと思って」
  「死んだら怖いものねぇ」
  「死んじゃったらもう怖くないよ。死んじゃってるんだから」
  「あ、そうか。そうねぇ。生きているから怖いんだ」
  「からだは数年で置きかわっちゃうんだって。生まれたときから身体は少しずつ死んでるんだね」
  「そうね」
  「死ぬと自分の意識はどうなるんだろう?」
  「わたしには決められないけれど、谷川俊太郎のこの詩は好きよ」


          「死んだ子どもの残したものは
            ねじれた脚と
            乾いた涙
            ほかにはなにも残さなかった
            思い出ひとつ残さなかった

            死んだ彼らの残したものは
            生きてるわたし
            生きてるあなた
            ほかには誰も残っていない
            ほかにはなにも残っていない」

            谷川俊太郎


  わたしってなに? 脳にある意識? それだけではなさそう。感覚器官や神経細胞、身体全体の細胞にもありそうだ。意識して動かせる身体の部分もあれば、動かせない部分もある。意識が眠っていても身体は働いている。眠っているとき意識のわたしはどこにいるの?  どうなっているの?  意識のわたしはいないの?

  「ねえ、おかあさん。心ってどこにあるの?」
  「そうねぇ、昔の人もそう思っていたみたいよ。心とも知らぬ心をいつのまに我が心とやおもひ染めけむ、なんて言ってるから」

  朝起きたときにわたしだとわかるのは記憶があるから。でも最近の脳科学によると記憶を蓄えている部分はないそうだ。記憶はシナプスの励起、つまり神経を通った電気の道のパターンだとのこと。人は眠っているときもかゆいところをかいている。意識は氷山の一角で、膨大な無意識の上にのっている。無意識ってわたし?   無意識ってなに?

  そんなことを考えていたら、ひとが死ぬってどういうことだろうと思った。死について考えることは生について考えること?  生命は生まれたときから死に向かって歩み始める。生きていることはまわりに影響し、まわりの意識に残る。残ったものは身体がなくなってもあとに残る。身体が死ぬと意識も死ぬのだろうか。意識は分かれてほかの意識に残り、そしていつのまにかほかの意識になり、続いていくんじゃないのかと思った。

  「ねぇおかぁさん、人って生きているときは身体で区切られて、死んでからはお墓で区切られて、面倒くさいね」
  「そうねぇ。だから魂は風になってこの広い世界を飛び回っているってみんな歌うんじゃないの」
  「そうだね。 おかあさん、あしたはフレンチトーストが食べたいな」
  「わたしはバゲットのガーリックトーストがいいな」

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第十場           万引き

  芙蓉(ふよう)の花が咲き誇ると秋が近くなったなと思う。まだ日差しは強いけれど、朝吹く風が涼しい。校庭の木の葉の一枚が半分みどりで、あとは黄みどりと黄色に変わっているのに気づいたりする。

  川に沿って歩いていたらサギが二羽飛び立った。夏からいるアオサギとそれより一回り小さいしらさぎだ。土手の上でアオサギは片足をあげて頬をかいた。そしていつもの向こうの田んぼへ飛んでいった。実のついた稲が見渡す限りに広がっている。みどりの海原だ。いい風が吹いて稲穂が波のようにうねった。しらさぎはアオサギとは別の方向に飛んでいった。羽根を広げ羽ばたくと七十センチほどある。細い脚の先の黄色い足があざやかだ。しばらく見ているとふたたび舞いあがり、向こうの田んぼへ飛んでいった。

  ぼうず山への石段をのぼり道を脇に逸(そ)れ、藪をかき分けて久しぶりに小さい原っぱに入る。栗の木にいっぱいの栗がなっている。イガグリが落ちて割れた口からこげ茶色の栗の実が顔をのぞかせている。

  最近はじめた木工工作の材料になる板をもらいに飛田製材所に寄ってみる。ここには製材するときに切り落とした端材がたくさんあり、自由にもっていくことができる。がき大将の飛田の部屋に顔を出した。飛田のおやじさんも一緒にいた。

  「板をもらいに来たんだ」
  「やぁ、ひさしぶりだな。いいのがあったか」
  「うん」
  「ありがとうございました。いい工作ができます」とおやじさんにも挨拶する。
  「そうかい。それはよかった。いくらでも持っていきな。そうそう、ところでな・・・」

  そこでのおやじさんの話は意外なことだった。佐藤が警察に補導されたというのだ。佐藤とはよく一緒にぼうず山へ遊びに行っていた。本屋で万引きをしたのが見つかったというのだ。驚いた。

  「最近多いらしいぞ。おれも仲間たちとはよく話をしたり、遊んだりしているんだ。万引きよりもっとおもしろいことや大事なことがあれば、あんなことはしないからな」

  おとなだけでなく万引きをする子供がとても増えていることはテレビのニュースなどで知っていた。でも身近な人間が、まして友達が万引きをするなんてショックだ。そのひとのことはよく知っているとばかり思っていたのだから。大きな黒い雲が頭のうえを覆ってくる気がした。


  学校で圭と話をする。佐藤と圭は同じクラスだ。佐藤が学校に来ているという。久しぶりに会って話してみた。

  「なんで万引きなんてしたんだ?」
  「ぼくの勝手だ」
  「勝手じゃないさ。みんな心配してる」
  「放っておいてくれよ」
  「そういうわけにはいかないよ。どうしてだい?」

  佐藤は、学校ではちょっと気をぬけばいじめられるし、家では親が勉強しろと言う。テレビを見ても戦争とお金儲けのことばかり。おとなは人を騙したりずるいことをしたりしても、人に勝てばいい、自分がまず、いい生活をしたいと思っている。それならぼくらもそうしてもいいじゃないか。万引きが見つかったのは運が悪かったけれど、見つからなければおとながしていることと同じだと言う。実際みんなそう感じている。そのとおりなんだと思う。悪いことをしてはいけないと口では佐藤に言ったけれど、説得する力がまるでないことは自分でもわかっていた。万引きをするのは悪い子、特別な子とおとなは言う。本当にそうだろうか。このあいだ世界的に有名な会社が儲けるために嘘をついていたというニュースがあった。そのためにみはりをもっと厳しくしなければという。みはりがいなければ嘘をつくということ?  本当にそうなんだろうか。

  その晩のこと

  「ねぇ、おかぁさん。おかぁさんは嘘をつく?」
  「そりゃあつくわよ。お化粧もするしね」
  「なんで?」
  「お化粧しなきゃ失礼でしょ」
  「じゃなくて嘘のこと」

  「そうねぇ。全部いいひとはいないからねぇ」
  「それってどういうこと?」
  「ひとってだれでも半分いいひとで半分悪いでしょ?」
  「えぇっ、そうなんだ」
  「そうよ。自分のことを見ればわかるでしょ?」
  「うぅぅん、確かにそうだね」
  「だから嘘をつくのが普通なの」

  これは大変なことになった。どうすればいいんだろう。良い自分を育てるものや、悪い自分を育てるものは何だろう。


  圭が佐藤の仲間達に囲まれて顔を殴られた。朝、例によって遅刻すれすれで校舎に入ったときに呼び止められて殴られたのだ。佐藤にこれ以上かまうなということだ。圭はなにもできなかった。ただ恐かったのでじっとしていた。頬を赤くはらして教室に入ると佐藤がいた。圭が佐藤の方を見ると佐藤は知らんぷりをしていた。じゅんちゃんが圭の赤い顔に気づいてどうしたのかと聞いた。圭はあったことを話した。じゅんちゃんと圭は佐藤と少し話したあと部屋を出ていった。

  しばらくして

  「ねぇ、圭が剣道を習うそうだ」
  「えぇ、圭が、まさか」
  「自分がなにもできなかったからそうとうしょげていたよ」
  「剣道で大丈夫かな? 柔道の方がいいんじゃない?」
  「どっちにしても大勢にはかなわないだろうね。でも心を強くするにはいいよ」
  「悪いことをするやつは仲間をつくるからね」
  「いいことをするやつもね」
  「そうかぁ。そうだね」
  「戦争も仲間がいなければできない」
  「いいことも仲間がいなければできない?」
  「いいことは一人でもできるさ。仲間がいれば心強いけどね」
  「でもそれがまた仲たがいの原因になったりして」
  「あははは、きみらしいね」
  「でもね、ちょっと思うんだ。いじめをする子は本当に悪い子なんだろうか?」
  「そうだね。なぜいじめるんだろうね」
  「貧しいから?  いや、心が貧しいから?」
  「こころが貧しいってなに?」
  「なにか満たされないものがあるんじゃないのかな」
  「満たされないものってなに?」
  「なんだろう」
  「なんだろうね」
  「・・・」

  「自分を大切にする心かな」
  「え?」
  「自分はかけがえのないものだって思う心」
  「いじめる方が?」
  「両方かな、いじめられる方も」
  「ふ~ん」
  「そう思ったら、そうそういじめられない」
  「そうだね。体罰もそうかもしれない」
  「自分が悪いから体罰を受けてもしようがないと思わなくなる」
  「そうだね。言葉の暴力も含めて」
  「みんながそう思うようになるといいね」
  「そうだね」
  「どうしたらいいのかな」
  「だれもちゃんと教えてくれないよ」
  「きみを見ていると、ぼくも自分を大切にしなくてはと思うよ」
  「どういうこと?」
  「いい友達を持ったなぁということさ」
  「ふ~ん」
  「いい友達かい」
  「うん、いい友達だ」

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第十一場           ひかり

  次の日、倉田さんに会いにひさしぶりに生物学研究所へ行く。家を出て住宅街を縫ってしばらく歩き、車の通る五メートル幅の道路を渡ると畑の中を突っきる農道になる。急に視界が開ける。秋の太陽がぽかぽか照って、空は塗り潰したように碧い。右手の林のはしに小学校、それからひとつポツンと離れて二階建てが一軒ある。林に沿って延びる歩道を歩く。薄緑の草原(くさはら)と黄色い土と背のそろった松の植木が、あいだに日だまりをつくる間隔で並んでいる。うしろは箒を逆さにしたような灌木の林だ。小春日の空に雲がゆったりと動いている。夏のあの匂い立つ緑と梢の躍動はないが耳を過ぎる風が心地良い。体の中の何かがまわりと重なり合い溶け出して、ゆったりとした静けさに包まれる。

  研究所の門を入ると木犀の花の香りがそよ風にのって運ばれてきた。モチノキの赤い実を小鳥がついばんでいる。秋の木々には赤が映える。すでに母を介して時間や光について聞きたいことがあると倉田さんに話してある。

  「いい娘じゃなくてゴメンね」と母。
  「いいえ、じゅうぶんいい子ですよ。ぼくにとっては」
  「どうする?  ぼくの部屋へ行くかい?  まめ大福とお茶があるけど」

  願ったりかなったりで申し訳ないくらいだ。いそいそと倉田さんの研究室へ行く。

  「倉田さん、どうして光は波で粒子なの?」
  「おっと、いきなり上段打ちにくるね。植物の時間のことはいいのかい?」
  「それもあとで聞きたい」
  「それではまず光の話だ。日光が当たると電気が流れることは知っているね」
  「太陽光発電だね」
  「そう。  太陽光発電は家庭用の電球では発電しないことは知っているかい?」

  倉田さんはこんな話をしてくれた。それはとてもおもしろかった。

  りんごが木から落ちるのを見て引力を発見したと言われるニュートンは「光は粒子だ」と思っていたんだ。一方、十七世紀の同じ時代にいたホイヘンスは「光は波だ」と言っていた。でもそのころはニュートンの方がホイヘンスよりもずっと有名だったので、みんな「光は粒子だ」と信じていたんだ。十九世紀に入ると、ヤングが光の干渉を実験で示した。波同士がぶつかると弱めあったり、強めあったりするのが波の干渉だ。それで逆に「光は波だ」ということになったんだ。

  結局、光は波か粒子かと言う議論はマクスウェルが「光は電磁波」であることを明らかにするまで続いた。いまはみんなが当たり前に思っている電磁「波」だけれど、電磁波はとても不思議な性質を持っている。海の波も音の波も地震の波も水や空気や地面があるから伝わるんだ。けれど電磁波はなにもない真空の宇宙でも伝わる。すごいだろう。だから光は、ほんとうは「波」でも「粒子」でもないんだ。波も粒子も物体(モノ)だけれど、「量子」である光はモノではないのだから。今の科学では光はまだよく扱えるものではないのかもしれない。というのは、真空はなにもないわけではなくて、真空が宇宙のダークエネルギー(観測できないエネルギー)を持っていると考える研究者は多いぃんだ。

  「ここから先はすこし専門的になるんだけどいいかい?」
  「うん。どうぞ。続けて」
  「原子という言葉は知っているね」
  「もちろん。みんな原子でできている」
  「そうだね。原子は原子核とその周りの電子とからできている。まるで太陽系のようだ」

  確かにここから先の倉田さんの話は今まで聞いたことがなく、異次元の世界へ入ったようだった。

  原子の中の電子はある軌道上にあり、高い軌道ほどエネルギーが大きい。電子が下の軌道に乗り移ると減った分のエネルギーが電磁波(光)として出される。また電子は軌道のエネルギー差に等しい電磁波を吸収すると上の軌道に乗り移る。惑星と太陽との関係のように軌道は自由にはとれなくて、ある一定のエネルギーごとにある。このエネルギーは電磁波の振動数が大きいほど大きい。エネルギーは振動数にある数hを掛けたものになる。

  いちばん上の軌道にある電子に、ある振動数より大きい光があたり、そのエネルギーが電子に吸収されると、その電子は原子から飛び出していく。これが太陽光発電だ。青以上の紫外線でないと電子は飛び出さないんだ。実際にはデジカメのCCDセンサのように、半導体を使っているので、遊離電子(飛び出しやすい電子)が流れて可視光でも発電するけどね。

  「倉田さん、原子は太陽系の形をしているんだ」
  「厳密には少し違うんだけれどね。ひとに説明するときにはわかりやすいだろう?」
  「どこがちがうの?」
  「電子も光もミクロの世界のものは本当の位置や形がはっきりしていないんだ」
  「まるで雲みたいだね」
  「そうだね。いままでのたくさんの研究によってこれまでのことが分かったんだ」
  「それで光は波で粒子って言われるんだ」

  「研究するということは過去の人たちが研究してきたことをもとにして新しいことを加えることで、研究は大勢の人の力を合わせないとできないんだ。今いる人も、亡くなってしまって今はもういない人もね」
  「いいひとの集まりもあるんだ」
  「そうでないことも多いけどね」
  「ニュートンとホイヘンスみたいに?」
  「ハハハ、人が集まると争いごとがはじまる」
  「そうだね。あちこちで戦争しているもの。ひとりで戦争はできない。国や民族にからむものが多いけれど、宗教にからんだ戦争も多いね」
  「そう見えるけれど、ほとんどは経済的な格差が原因なんだ」
  「でも宗教があるのにね。宗教はなぜあるんだろう?」
  「ひとは何かを信じないと前向きに生きていけないからね。苦しいときほどそうだ」
  「だから色々な宗教があるんだろうか?  集まらなくてもいい宗教があるといいのに」
  「一人ひとりが自分の信じるものをもつのは大事なことだよ、集まらなくてもね」
  「よくわからない」
  「そうだね。ひとの心は難しい」

  「ところで、まめ大福はどうだい?」
  「あ、いただきます」

  まめ大福とお茶をいただくと、結局、植物の時間については次回ということになった。

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第十二場           MIKADO

  町の商店街へ漫画を買いにいく。郵便局の角を左におれてマクドナルドの前を通り過ぎる。右手にコンビニが見えてきた。もうすぐいつもの本屋だ。本屋の前まで来るとなんだか騒がしい。警察官が出たり入ったりしている。

  「なにかあったんですか?」
  「万引きだよ」
  「つかまったの?」
  「いいや、でも小学生らしい」

  あちこちでそんな話し声がしている。ポンと背中をたたかれた。振り返ると圭がいる。持っているビニール袋を透かして漫画が見える。思わずニヤリとする。これでどうやら漫画を買う必要はなくなった。圭に本屋でなにが起きたのか聞いてみた。店員が万引き犯と思って捕まえた子が本を持っていなかったのだという。本が何冊かなくなっているのは確かなので仲間がいたのではないかということだ。圭が言った。

  「佐藤じゃないといいな」
  「そうだね」

  この本屋では万引きにより失う本が毎月何十冊もあるという。だからいつもは注意をしているのだけれど、今日は不思議と気が散ってしまったとのこと。本好きの店員さんが、万引きした本でも読んでくれればまだ少しは許せるんだけれど、ほとんどすべての本は読まずにそのままリサイクルショップへ売られてしまうと話していた。

  ふと、このあいだリサイクルショップで手に入れた量子力学の通俗本のことが頭をよぎった。こちらの世界からとなりの星へは一瞬で行くことができる。量子の世界のワームホール、次元の裂け目だ。どの世界にもわたしがいるらしい。らしい、というのは会えないからだ。こんな現象は量子の世界ではシュレディンガーの猫とも呼ばれている。この猫は見ようとすると見えなくなる。二人のわたしが合えることもない。ちょっと残念だ。別のわたしに会ってみたい気がする。でも考えてみると、そんな必要はないのかもしれない。わたしをじっと見つめてみると色々なわたしがいることに気づく。この色々なわたしはもしかするととなりの星のわたしかもしれない。わたしをじっと見つめるととなりの星の自分が見えてくる。さぁ、ワープしてみよう。


  テレビでじゅんちゃんが話をしている

   「おとなも万引きをしているし、知り合いのあいつも万引きをしている。だからいいじゃないかと思って万引きをしていても、悪いことをしているなとどこかで思っている自分がいます。良いことと悪いこととを判断する基準は自分の内にしかありません。だからといってそれは人によって違う相対的なものではありません。なぜなら「よい」という言葉があり、「悪い」という言葉がある。そしてこのことばの意味を全ての人が知っていて、具体的な良いことや具体的な悪いことを思い浮かべなくても言葉が通じあうということは絶対的なことだからです。善悪は外にはなくて内にあるという事実に気がついたなら「悪いこと」は自分の心にとっても悪いこと。本当に良いことは「しなければならないこと」ではなくて、本当に良いことでなければしたくない、本当に良いことだけがしたい、そういうふうに変わるはずです。音楽が、聴こうとしなくても自然に聞こえてくるように、本当に良いことは自然で気持ちがいいものなんです」

  「反対に、悪いことをするのは自分の心を傷つけることなんだ」
  「そういう悪い意識はほかの人にも伝わるのかな?」
  「みんながやっている、だからいいじゃないかという人は多い」
  「それじゃぁ、人間はお先真っ暗じゃない」
  「悪い心が増えればそうだね」

  その後、万引きは少なくなった。

  「どうしてみんなじゅんちゃんの言うことを聞いて万引きをやめてしまったの?」
  「どうしてだと思う?」
  「MIKADOが言ったからさ」
  「えっ」
  「ぼくはMIKADOなんだ、ここでは。MIKADOは嘘をつかない、正しいことしかしないと信じられているからさ」
  「そうだね。MIKADOが噓をついたらおかしい」
  「何を言ったかも重要だけれど、だれが言ったかはもっと大事なんだ」
  「嘘つきが立派なことを言ってもだれも信じないからね」
「でもあれは池田晶子の「十四歳からの哲学」からの受け売りだよ。ぼくが言いたいことにピッタリだったからほとんどそのまま使わせてもらったんだ。あの本はこのあいだ読んだばかりだから記憶に強く残っていたんだ」
  「そうなんだ。でも本当にそうだと思った」
  「ここではMIKADOも十四歳までは普通の学校の普通の学級に入るんだ。それから自分の進む道を決めるのさ」
  「どんな人も良い心と悪い心を持っている。それなのにMIKADOだけは全てが良い心であるって信じられている。大変だね」
  「そうかもしれない。ぼくももうすぐ自分の進む道を決める時期なんだ」
  「じゅんちゃんはどうしようと思っているの?」
  「きみには信じられるものがあるかい?」
  「う~ん。まだよくわからない」
  「それでいいんだ。自分が自分の主人であることだからね」
  「でも、どうして?」
  「信じるものがある、信じる者がいるということは何かを決めるときの物差しになるからさ」

  これはわたしにもよくわかった。そしてMIKADOがMIKADOでいることは何かを信じているということじゃないのかと思った。でも、正しいことしかしないと信じられている生き方は大変なんじゃないかとも思った。この星のじゅんちゃんは、「よい悪いという言葉の意味をみんなが知っていて言葉が通じあう」と言うけれど、言葉ってそんなにしっかりしてるんだろうか?

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第十三場           親子

  冬の朝は窓の結露をふくのが日課だ。母に言われて窓をふく。ステンレスサッシのはまった木枠にも露が付いている。ステンレスは一度ふくと鈍い銀色の面を現わすが、木枠は次第に黒ずみ、心なしか痛々しく見える。

  「おじいちゃんが亡くなった」 

  おかあさんがそばに来て静かに話した。

  「お葬式?」
  「ううん。しないの」

  おじいちゃんは葬式無用、戒名不要が持論だった。生きているあいだ身体で区切られ、死んでからもお墓で区切られるのは嫌だ。身体は焼いて骨にして海か土に返してくれ。感謝して、借り物の体を返すよということだった。

  「そうするの?」
  「そう、そうするの」

  親と子って何だろう?

  子供は人の頭で考えてつくるものではなく,自然から授かるもの、子どもは天から来てもらったものとおじいちゃんは言っていた。子供の意識はいつできるんだろう?  意識が脳にあるとすればわたしはあとから後天的にできるものだ。でも感覚器官や神経細胞は遺伝子を使い、細胞同士のコミュニケーションを介して作られる。細胞は壊され、また再生される。わたしという身体は同じものではなく、数年すればほとんど全ての細胞が入れ替わっている。わたしという意識はソフトウェア的だが、身体も遺伝子と細胞プロセスというソフトウェアに乗ったものだ。遺伝子のプロセスは遥かな昔から続いている。そうだとしたら親と子ってなんだろう?

  「ねぇおかぁさん。おかあさんにとってわたしはなに?」
  「かわいい子よ。ちょっと変わっているけどあなたらしいし」
  「親と子って特別なもの?」
  「そうね。特別ね」
  「どう特別?」
  「たくさんの可能性の中から縁があって親子になったということで特別よ」
  「それから?」
  「それだけよ」
  「ふ~ん」
  「縁があってよかった?」
  「うん。縁があってよかった。いい縁で良かった」
  「ホント?」
  「うん」
  「ありがとう」 

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第十四場           雪

            冬の朝、学校まで雪道を歩いていく。
            キシッキシッ、キシッキシッ、
            きのう降った新雪を踏んで歩いていく。
            襟を立てて手をポケットに突っ込み、下向き加減に歩く。
            朝陽が眩しいので目を細め、白い道をキシキシ歩く。
            キルティングの袖に針のような雪の結晶が落ちてきた。
            天からの贈りもの。
            碧い空に舞う風花だ。
            教室に入るとスチームがシュンシュン、カンカンと音を立てている。
            頬の肉がジワっと緩む。
            じゅんちゃんが入ってきた。
            首に巻いたマフラーを外し、
            両手をスチームにかざし、耳にあてた。

  「今朝は寒いね。ヘッドバンドを忘れちゃった」
  「うん。しばれる。でも一人ぼっちよりは寒くないよ」
  「へぇ~、きみでもそうかい?」
  「そりゃあそうさ」
  「ふ~ん」

  例によってじゅんちゃんの目が笑っていた。わたしにもそういうときはあるさ。でも、そういうときにも人を欲しがらない人間になりたい。石垣りんが言ったように、だれが何をしてくれなくても、さみしかったらさみしさをふところに抱いて、さみしさを味わって、さみしさを糧に、さみしく豊かになろうと思う。

  「そのとき君が見つめているもの、ぼくも知りたいなぁ」
  「ありがとう、じゅんちゃん」

  「ボンジュール、アンバゲット、シルブプレ」、と言いながら圭が入ってきた。
  「なんだよ、圭、どうしたんだい?」
  「来る途中でさ、おばさんがこう言ってパンを買ってたんだ」
  「それで?」
  「なんだか、いい朝だなぁと思って」
  「それはいい。いつものバゲットとコーヒーなんだろうね」
  「今朝は真っ蒼な空と真っ白い雪を見ながらだ」
  「あぁ、パリッパリのバゲット。おれも食いてぇ」
  「当たり前の毎日かぁ。  いいね」

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第十五場           早春

  朝が明るくなった。窓から差し込む陽の長さが短くなった。天気予報が、春一番が吹きましたと言っている。学校へ通う途中、梅の花が二、三枝開いていた。畦道を風が渡っている。風の足跡が見える。春がきたようだ。そして花粉症の季節が始まった。

  学校ではスマホをもっている人数と同じくらい、マスクをしている生徒が多い。このあいだ先生と話していたら「薬も飲んでいるんだ」と言っていた。花粉への体の反応を鈍くするんだそうだ。見せてもらった注意書きに、眠くなることがあるので車の運転には注意して下さいとあった。先生も大変だ。世界中でどれだけたくさんのひとがマスクをし、薬を飲んでいるのだろうか。花粉症はひとの免疫システムが反応することで起きる。これも生命の逆襲かもしれない。

  冬のあいだ幹と枝だけだった川沿いのエノキに、透きとおるように青い若葉の芽がたくさん出てきた。みんながエノキのじいさんと呼んでいる古い大きな木だ。木肌がゾウのようだ。そのうち服を着るように色とりどりの緑の葉に覆われて、すてきなおじいさんになる。   古い大きな木を見ると思いだす詩(うた)がある。


[エノキのじいさん]           「俺に平蔵という名をつけてくれたのは
            死んだ俺のオトッツアンだが
            この松の木に
            松という名をつけたのは
            そもそも誰なのであろうか

            おお  こんなにでつかいのこぎりで
            きりたふされても
            なおあをあをと生きてゐる松の木よ
            俺はその切口にしやがんで
            一一つ一つ年輪をかぞへた」

                            「平蔵の詩」            木山捷平


  古い大きな木が、風や月日をその枝に抱えて立っている。ただ立っているだけで何か語っているように思える。そう言えば木山捷平にはこんな詩もあった。

          「濡れ縁に置き忘れた下駄に雨が降っているやうな
            どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言うやうな
            そんな具合にして僕の50年も暮れようとしていた」

                            「50年」            木山捷平


  ふと気づいたら、エノキのじいさんの葉が一枚残らず散っている。ピーピーという鳴き声にふり向いたら寒ツバキの花をヒヨドリがついばんでいた。そして、まだ五十年の半分にも満たないけれど、いつのまにかわたしも大学生になっていた。

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(第2幕)

第一場      キャッチャーインザライ

  大学に来てみるとロックアウトだった。門の前には、機動隊員が盾(たて)を並べ、立ちふさがっている。まるで、いちご白書のシチュエーションだ。なんだか50年前に来たみたいだ。しょうがない。一服しようと校門前のミスドに入る。オールドファッションをトレーにのせ、カウンターに向かう。

  「ホィップクリームもお願いします」
  「店内でお召し上がりですか」
  「ええ」
  「今日はコーヒーは?」
  「あ、それも」

校門が見える窓際の席に座る。「白い恋人たち」のピアノカバー曲がBGMに流れている。季節の変わり目の空気がやわらかく感じられる。コーヒーを一口すする。いつもの香りとさわやかな苦味が口中に拡がる。思わず、「ふぅ」っと声がもれてしまう。一息ついた視線を窓の外に向けると、盾の反射するひかりのなかに、見慣れたひょろひょろしたシルエットがある。手を上げて、こちらへやって来る。カウンターを素通りして、

  「ちょうどよかった」
  「おはよう。どう?」
  「まぁまぁ」
  「それはいい。まぁまぁがいちばんだからね」

圭はわたしのオールドファッションをひとかけらつまむと口の中へ放り込んだ。学内では講義ができないので、定山渓で集中講義をすると中山先生が言っていた、というのが圭の話だ。中山先生は一年目の第一外国語を受けもっている。顔がスキー焼けしているので、黒瓢箪(くろひょうたん)というニックネームをつけられている。定山渓は先生のスキーテリトリーだ。講義は合宿形態で、日本語を話したら減点され、そうでなければペーパー試験なしで合格ということだ。いかにも黒瓢箪らしい。


  当日の朝、ザックを担いで宿の玄関先にたむろしていると、ドドドドドドドドドという人を振り向かせる低音とともに、ハーレイが入って来た。ドライバーは丸顔、丸眼鏡、丸っこい小太りな体躯(たいく)の外人だ。そのとき、音を聞きつけてか、玄関先に先生が出てきた。

  「ユージーンだ。ジーンスミス。講義を手伝ってくれるネイティブだ」
  「Nice to see you, everyone.」
  「先生、減点ですよ」
  「あ、そうか。いや、おれはいいんだ」
  「そんな、勝手な」

という風に合宿が始まった。はじめは座学で、教材は J・D・サリンジャーの「キャッチャーインザライ」だ。輪講で代わる代わる読みながら、質問や意見、感想を述べていく。みんながそれぞれ英語ですき勝手なことを言うので、読み合わせはなかなかはかどらない。そんな感じで午前中が終わった。

  「あとは各自が明日までに読んでおくように」
  「え~、たいへんです」
  「減点いち」
  「Terrible!」

天気がいいからと、午後は野外授業になった。本名では面白くないので、みんなニックネームで呼び合うことにした。自選だ。わたしはメイということにした。「ピッタリだ」と圭が言う。圭はケイというらしい。「便利な名前だね」と言うと、「そうだろ」としらっとしている。ちょっと気取ったのや、マンスフィールドの作品から取ったのや、ガンダム風なのや、いろいろ個性的で面白い。しかしさすがに誰も「黒瓢箪」とは言わず、「テル」と言っている。先生の留学生時代の愛称らしい。みんながジーンを囲むようにして歩いている。ネイティブとしゃべりたいと言うよりもどうもジーンの風体、経緯、バイクといった話になっている。生き様がキャッチャーインザライの主人公、ホールデンを連想させるのかもしれない。でもわたしはホールデンはケイの方が似合っているなと思っている。ジーンは少し丸すぎる。


  合宿が無事に終わり、めでたく単位が取れそうだ。今日は圭がアパートを引っ越すのを手伝う。とは言っても大した荷物があるわけでもないので、古いスキー板に段ボールをいくつか載せて、なごり雪の積もった道を引いていった。

  「この間の、街中遭難騒ぎを思い出すね」
  「そうそう、あの時はどうなるかと思った」
  「なかなか来ないんだもの、みんな心配したよ」
  「金欠だったんで、電車代をケチって歩いたのがまずかった」
  「午後、吹雪になったからね」
  「腿まで入って歩けなくなったんだ」
  「まぁ、何とかたどり着いてよかった」
  「あぁ、今になってみりゃぁ、いい経験だった」
  「いいトレーニングだったのかな」
  「まぁね。トレーニングは必死にやるに限る」
  「腰にかけた手ぬぐいがカチンカチンに凍ってたよ」
  「来る途中、銭湯に入ったんで電車代が無くなったんだ」
  「そういうのを、因果応報って言うんだよ」
  「いいや。弱り目に祟(たた)り目って言うんだ」
  「ん?」
  「あのとき、雪の中にコンタクトを落としてさ、いくら探しても見つからなかったんだ」
  「なるほど。弱り目に祟り目だね」


  外国語の履修が無事終わったので、打ち上げをしようということになった。黒瓢箪にも声をかけたら、大雪山の春スキーはいいぞと言う話になった。なんでも若いときに一度行ったことがあるが、その雄大さに魅了されたとのことだ。ワンダーフォーゲル部に声をかけ、ガイドしてもらうことにした。朝の六時にみんな駅前に集まる。初春とはいえ、気温は氷点下だ。吐く息が白く凍る。二泊三日なので荷物はそれほど多くない。とはいってもスキー支度であり、朝早いということもあるので、みんなの動きは鈍い。待合室で暖をとる。列車の到着を知らせる表示を確認し、改札口を押し合いへし合いしながら通る。列車に乗りこみ、スキーとザックを荷物エリアに置いたらもう安心だ。

  「先生、アザラシのシールっていうのを見せてください」
  「使わないんで持ってこなかったよ」
  「そうなんですか、残念。アザラシはラムサール条約には触れないんですか?」
  「古いもんだからな。今はもうダメだな」
  「いい合成シールがありますよ」、とワンゲルのメンバー。
  「大丈夫。今回は歩いて登りますから」
  「え~、歩いて登るの」
  「そう、頂上の景色や、滑るありがたみが倍増するよ」
  「やれやれ」
  「あははは、ウソだよ。ロープウェイで登るんだ」
  「夏山なら、歩いて頂上へ行って、裏の大斜面を滑れるんだけどね」
  「今回は林間コースだよ」

などとワイワイ話しているうちに旭川駅についた。駅からバスにゆられ、大雪山系のロープウェイ駅に到着する。山小屋に荷物を置いて、頂上直下の姿見の池までロープウェイに乗ってのぼる。下を覗(のぞ)くとスノーボーダーやスキーヤーが滑っているのが見える。雪煙が舞っているので、けっこうなパウダースノーであることがわかる。

  「ついたねぇ」
  「ブルルル、寒いね。ちょっと一杯、あったまろうか」
  「また、すぐそれだ。滑れば暖かくなるよ」
  「おい、ちょっと見ろ、あれ」
  「なんだい」

スキーの先端を雪面から浮かせて、まるで浮いているようにして上から滑り下りてくる一団がある。全員が白の上下に包まれているので、ヤセた雪ダルマが連なって下りてくるようだ。背中にたすきがけに棒のようなものを背負っている。

  「北方自衛隊だな」
  「あの棒は自動小銃かな」
  「こんなところにいるとは思わなかった」
  「それにしても、さすがにうまいもんだな」
  「彼らはツボ脚で登って、下りて来たんだろうね」
  「そりゃあたいへんだ」
  「もう久しく、そんなことやってないな」
  「そんな元気にはとっくに見放されてるよ」
  「まるで老人の会話だね。さぁ、いくぞ!」 [スキー]

道産子のワンゲルのメンバーが跳びだす。あとに続いてわたしも滑りだす。雪煙が背中を舞い上がり、先行したメンバーの背と後頭部がたちまち真っ白に染めあがる

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第二場      パン屋

  平安通りはまだ暗く、人っ子一人歩いていない。歩くにつれて、街灯が二重三重のわたしの影をつくっていく。 ときおり、クルマが耳障りなタイヤの音を響かせて通る。濃紺の西の空を見ると、斜め下から斜め上へ一列に、クロワッサン(三日月)、ヴィーナス(金星)、ジュピター(木星)が並んでいる。なんだかラッキーな気分になる。ゆるやかな坂をのぼり、わき道を左に入る。裏から店に入ると、しんさんがもうミキサーを回していた。

  「冷板とラックと番重のアルコール消毒、頼むよ。まだなんだ」
  「わかりました」

  わたしは大学に紹介されて、ここでアルバイトをしている。しんさんは流れのパン職人だ。かっこよく言うと、フリーランスのパン職人。彼は今、わたしの指導もしている。早朝作業の学生の指導はなかなか大変だろうと思い、返事もすなおになる。パン屋ではおもに、街中のレストランへ卸(おろ)すバゲットやバンズを作っている。バゲットはプロの料理人が手にとるパンでもあり、けっこう気をつかう。アルバイトには、なかなかまかせてもらえない。しんさんはミキサーのスイッチを切りながら、ミキサーボウルの内面にそって左手に握った粉を回しかけ、右手でボウルから生地を掃き出した。その生地を三百八十グラムずつに分割すると、両腕を正面から左右に拡げながら、生地をあっと言う間に八十センチの長さの棒に成形していく。腕を左右に拡げながら手のひらを波打たせ、指と掌底(しょうてい)で棒状にすると同時に表面に張りを出していく。成形された生地は蛍光灯に照らされ、作業台の上で不安げに見える。しんさんは赤子を抱くようにそっとその生地を持ちあげ、帆布におき、側面に帆布を寄せる。生地はこれでU字型の寝床に収まり安心だ。こんな寝床が一枚の帆布あたり十数本できていく。

  「昨日のバゲット、フレンチトーストにする下準備してくれる」
  「はい。今日は何本」
  「十五、六本かな。半分は斜めにカット、半分は中割で」
  「わかりました」
  「あ、卵液、作っておいたから。ここに」

先輩のかっちゃんが作業台の下の冷蔵庫から、調味液が入ったボウルを出してくれた。半分は普通のバゲットのように斜めにスライスカット。厚さはちょっと厚めの2センチ半。のこりはホットドッグパンのように中割し、十五、六センチの長さに切る。それぞれを順番にボウルの中に漬けていく。

  「おい、パンの先っちょが出てるぞ。先が出てたら、ガブっとかじったとき味が無くてガッカリするだろ」
  「あ、ホントだ。まずいまずい」

などと言いながら、我ながら手際よく数十個のパンを調味液に浸し、6個ずつ天板に置いていく。あとは焼くだけだ。天板をラックに載せておく。中割のバゲットのフレンチトーストはわたしのお気に入りだ。ランチはいつもこれ。あとはルーティンになっているイングリッシュマフィン生地の分割だ。70gずつ分けながら、最近は5gの差がわかるようになってきたな、と自分でも感じている。秤(はかり)をほとんど見ないで、ほぼ正確な重さに分けていく。ひとの感覚はすごいなぁと思う。

  働いていると時間がたつのが速い。ドヤドヤと中番のメンバーが入って来た。圭もいる。中番といっても、まだ普通の会社がはじまる時刻だ。パン屋の朝は早い。圭とハイタッチして、わたしとしんさんは引き上げだ。このあと何をするのかって? しんさんの本職は武道家だ。わたしはこの方面でも指導を受けている。今朝はこのあと少し、彼の道場で稽古するつもりだ。乗せてもらったクルマの中でさっそく気になっていることを聞く。

  「しんさんと対峙(たいじ)すると凄い威圧感があるけどどうして? いつもどこを見ているんですか?」
  「相手の息を見ているんだ」
  「息って見えるんですか」
  「うん、見える。相手が息を吐いているときは攻めない。防御だ」
  「う~ん、私には見えないなぁ」
  「そのうち、見えるようになるさ」
  「そうだといいんだけど」

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第三場      見えないもの

  今日は朝練の日だ。「守破離」の扁額が見下ろしている。朝一番の立ちあい稽古に、

            おもむろに残心を解く弓始(ゆみはじめ)      (加西市 木本一風)

という句があたまをよぎる。以前は、開けはなした窓から潮風が入る小さな武道館で練習に励んでいた。汗をかく時期の方が多かった。ここでは裸足(はだし)の足うらの感覚がなくなる。その分、あたまが澄みわたるようだ。相手の動きがよく見える。感覚がとぎ澄まされていくのが自分でもわかる。伸びてくる剣先をすりあげ、切り落とす。そのまま腰を入れる。

  「今朝はいちだんと気力があるね」
  「そう?」
  「うん、何かいいことがあった?」
  「パンのバイトかな」
  「ふ~ん、それで?」
  「心をもてあましたときは、パンをむぎゅっむぎゅっとこねるんだ」
  「へ~、それで?」
  「ざわざわしたきもちがすっとする」
  「ははは、そうだな。でも生地のまるめもいいよ」
  「どういいの?」
  「手のひらの感触。なんかビーナスのおっぱいをさわってるみたいだ」
  「それはきみらしいね」
  「どっちにしろ、気力が出るのはいいことだよ」
  「そうだね。さて、拭き掃除にしようか」
  「埃って、宇宙塵だ。言ってみれば星のかけらだよ。掃除するのはもったいない」
  「ハイハイ、お説ごもっともです。さぁ、さぁ」


   朝練のあと、ふたつ講義に出て、お昼になった。先日の打ち上げで泊った山小屋の夕食は大ぶりのコロッケだった。冷えた空腹の身体に昭和のあったかさが染みわたるようで好評だったことを思い出す。

  「お腹がすいた~、何にしよう」
  「メンチカツコロッケ定食!キャベツ大盛り!」
  「じゃあ ... 豚バラの生姜焼き定食!」

  「二講目にさ、守拙の語源で、木瓜(ぼけ)咲くや漱石、拙を守るべくって言うのがあったろ」
  「うん、で?」
  「さらに語源さがしで、陶淵明の詩での守拙帰園田や老子の、大巧は拙のごとしと続いたろ」
  「うん、よく覚えてるね」
  「さっきやったばっかりだろ」
  「うん」
  「ことばの連なりって、すごいなぁと思ったんだ、何千年もあいだがあるのにさ」
  「そうだね。大事なものは目に見えない言葉かもしれない」
  「言葉ってさ、全部忘れても、なんか余韻が心に残ってるよなぁ」
  「見えないものの中に真実があるって言うよ。目に見えない風は季節の前ぶれだし」
  「東洋人の陰翳礼讃(いんえいらいさん)かな。見えない陰こそ、ひかりの主役ってさ」

青年期に特有な、地に足のついていない風で、ちょっと形而上学的な、でもどこかまじめで軽視できない圭との話はおもしろい。夏に八ヶ岳をひとり逍遥(しょうよう)したことがある。真っ暗な木立の中を野宿し、地面に敷いたシュラフに顔をうずめて寝たときに、地面から伝わってくる目に見えないものたちのたてる音、その気配、土のあたたかさを思いだした。そのときも寝入りながら、現実の世界と異世界は意外に近いんじゃないかと感じていた。木や草にも思いはあるのだろうか、風のそよぎ、月のひかり、彼らと語り合えるように人とも語り合えるなら、世界はどんなに素晴らしいだろうとそのとき思った。翌日、稜線の岩場を、足を踏み外さないように歩いていて、ふと目を上げると影絵があった。動く影絵、雲の影絵だ。朝陽が数条、影をつらぬいて、厚く重なっていた黒雲が裂け、紺碧(こんぺき)の天井がのぞいた。いまでもフェルメールのラピスラズリーを見ると思いだす。

  部活の定期連絡会があるので、午後遅く、てくてく歩いて学生会館へ行く。プロムナードのイチョウの樹々ははだかの枝を冷たい空気にさらしている。ときどき強い北風が吹き、枝が揺れる。その揺れが、じゅんちゃんの行った大学にもカエデのプロムナードがあったことを思いださせた。フェイスブックやラインでやり取りはしているけれど、メディアを挟んでの会話は何かがぬけ落ちていて、ものたりない。どうしているかな、となつかしく思う。あれは何のおりだっただろうか。ことばについてこんな会話をじゅんちゃんとしたことがあることを思いだした。

  「ことばには語感があるだろ。だから意味すること以上の想いが伝わるんだ」
  「そうだね。同じことばでも、言い方で、伝わるものがかなりちがう」
  「昔から親しまれてきた言葉にはことばの力があるから、その力だけを借りて、本当にはないのに、あるように見せようとすることもできる」
  「今の政治家に多い言葉だね。真摯に向き合うとか遺憾に思うとか。手あかがついた言葉になってる。ビジネスの世界でもそうだ。死亡保険なのに生命保険と言いかえてる」
  「言葉には注意しないといけないなぁと思うんだ。手あかがよく見えないからね」

  「何か心に感じるものがあったとき、言葉に出したいのにできないときがあるだろ」
  「うん、言葉にしてしまうと、一部しか伝わらない感じがするときがある」
  「でも言葉にしないと、何か心に感じた、ということだけしか残らないからもどかしい」
  「そうだね。言葉にすることで残る。でも語らないことで、伝わることもあるよ」
  「そう、不思議だね」
  「そのときの目や声や空気感がこころをそのまま伝えるんだ。伝えたいのは話じゃないんだ」

そう言ったときのじゅんちゃんの顔を思いだす。目をつぶり、深呼吸した。周囲の風のざわめきがすっと遠のいた。

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第四場      春

  朝、ニュースを眺めていると、

  『絶望が他者に向けられた。絶望の連鎖をどう絶つ?』

  という題字が目の中に飛び込んできた。読んでみると街中の繁華街でまたテロがあったらしい。それを見てこんなことを思い出した。地方の町工場でロケットの開発をしている人が言っていたことだ。

  「そりゃあ無理なんじゃない、そんなことできっこないよ、と小さい頃から言われ続けてきた。なんの根拠もないのに。こんな根拠のない言葉の連鎖をなくすことが非行に走る子をなくす。前に荒れた学校でロケット作りの話をしていたら、一番の悪グループが靴を踏み鳴らし、机を叩いて、話を聞こうともしなかった。でもこれは自分を怒らせようとしているんだと思ったのでじっと耐えた。モデルロケット作りはやってみるとおもしろい。最後には悪ガキたちはクラスのほかの人を帰したあとで、隠れて自分達もロケットを作って打ち上げ、後片付けを手伝ってくれたんだ」

  ニュースは色々なことを思い出させる。朝食のごまパンにいちじくのジャムをつけてかじる。どちらも色彩は地味だけれど、ごまといちじくはいいハーモニーだなと思う。残ったいちじくがジャムになるのだが、たいていは余らないので、わが家ではいちじくのジャムは貴重だ。パン皿の隣にはヨーグルトがある。透明なガラスの中で白いマシュマロみたいだ。窓に目をやるとこちらには綿菓子(わたがし)のきれはしのような雲が流れている。

  家を出て駅までの住宅街を歩く。庭先にしゃがみこんでいるひとがいて、そばにひと抱えはあるラベンダーのうす紫の穂が揺れている。「ラベンダー、きれいですね」というと「ありがとう」という声が返ってきた。春の花は人を近づける。揺れている薄紫の穂の向こう側に農家の納屋が見えた。木製の大きな扉の前にアヌビス神の黒い像が置いてある。その脇にモーリスのレプリカ車が止まっている。人影がクルマの脇に立ち、ドアをあけて乗りこんだ。クルマはゆっくりと納屋のまえの舗装されていない道を進み、二車線の道路に出た。そしてそのまま滑るように走り去った。

  都会のビルの地下駐車場にモーリスが止まっている。上の階の広いひと部屋の中央に、柔道場のように畳が敷かれている。中では数人の人達が互いに向き合い、かるく半身に構えて、両手をまるでステンレスボウルを持つようにして立っている。ひとりがするすると前に出た。相手をこぶしで突く。相手の、ボウルを持つようだった手のひらがそのこぶしを受けると、突いた方がまるで自分の力ではじき返されたように後ろ向きに転がった。   ひとは意識を伝えるだけでなく無意識を伝えることもある。自然界ではこちらが主(おも)だ。スポーツや芸事、武道の伝承なども無意識を養うことだ。そんなに難しく考えなくても、右利きのひとが左手で箸を使うのは大変だとわかる。手はいちいち意識しないで日常の動作をこなしている。しかし訓練すればだれでも左手で箸を使うことができるようになる。ここには無意識を伝えることができる人達がいる。


  日が出る時間が早くなった。朝、まだ暑くなる前に庭の草花の手入れをしている。きのう抜いたのにもう別の雑草が出ている。放っておくと草は伸び、草に隠れて色々な動物たちが出てくる。ミミズやダンゴムシ、アリは当たり前だが、トカゲやヘビ、カエルを追ってきたアライグマやハクビシンも出る。野良猫が二、三匹、住みついたりもする。小さい庭なのに猫たちは決してはち合わせしない。一匹の姿が見えるときにはほかの猫はいない。時間差居住している。

  「ラベンダー、きれいですね」と言ってくれる人もいる。そんなときは朝から元気がでる。言葉だけでなく、声や口調、そのまわりにくっついたものや空気が余韻となって伝わってくる。思わず、「ありがとう!」と言う声が出てしまう。

  きょうはデイサービスのひとが母をクルマで迎えに来てくれる。だれでも生きることは大変だ。毎日の仕事や家事、その中で避けるわけにいかない人間関係、限りない日常の面倒を適切にさばき、その中で心を満たして生きていかなければ、自分の命の時間を磨り減らしてしまう。日常の面倒の中には大事だと思っていることも多い。羊を飼うには柵をめぐらせなければと思っているように。大事だと思っていることがひとをひどく疲れさせる。   絆という言葉は「ほだし」とも読む。情にほだされるのほだしだ。情にほだされるとにっちもさっちもいかない。「きずな」と「ほだし」は二つ並べるとバランスがいい。自然はうまく繋がっていて、ときに協力しあったり、また放任したりしている。きずなだけを求めたり、ほだしだけを強調したりはしない。何かしてあげたいときはそこにいるだけでいい。楽しい思い出やそういう空気があるだけでいい。求めるのでなく、何かを与えようとするのでもなく、自分や周りにできることは難しいのだけれど信じるということだけだと思う。

  さぁ、朝の気持ちのいい内に、花たちに水をあげよう。セージの香りが漂っている。伸びすぎた頭の毛みたいで笑ってしまう。少し刈り込んでおこう。

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第五場           科学と宗教

  農家の納屋。木製の大きな扉から明かりが一筋もれて、アヌビス神の像とモーリスの輪郭が浮かび上がる。中で話し声がする。

  「ゆっくりと息を」
  「手のひらが暖かくなってきた」
  「そのままつづけて」
  「ひかりが出てる」

  扉の陰に隠れて人影があった。人影は闇に溶け込み、やがて見えなくなった。

  母屋では震災後一周年ということで、テレビが福島の原発事故についての特集をしていた。三つの疑問点が述べられていた。一つ目は、原子炉は津波でなく、もっと前に地震そのもので壊れていたこと。二つ目は、原発設計時にフェールセーフやフォールトトレランスといった技術者なら当たり前の安全検討が真剣にされていなかったのではないかということ。三つ目は、復旧に必要な物資を現地に補給するために汚染地へ行く人がいなかった。バックアップ体制がなかったということ。今はどうだろうか?

  翌朝、家に来た倉田さんに聞いてみる。

  「倉田さん、どうして治らないの?」
  「今の科学は宗教だからね」
  「へぇ~、科学って宗教なの? だから安全神話って言われるんだ」
  「ははは。科学は二つのことを信じることから始まっているんだ。宗教のようにね」
  「二つって?」
  「斉一性(せいいつせい)二元論さ、これは信じるしかない。証明できないんだ」
  「ふ~ん、そうなんだ。斉一性って?」
  「同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだという仮定さ」

  家を出て、倉田さんとの会話を思い出しながら歩く。水色の空にポツン、ポツンと雲が浮かんでいる。川沿いに並ぶコナラの樹上を悠々とアオサギが飛んでいる。向かいにあるムクロジの葉陰から涼しい風が川面を渡ってきた。川沿いに並ぶ木の、真ん中あたりの葉だけが揺れている。細長い葉が風鈴のように風になびいている。うしろの森のなかに風の通り道があるようだ。そよ風のなか、乳母車を押した母親が歩いて来た。脇で年少さんらしい子が跳びはねている。

  「気持ちがいい朝ね」
  「あ、ミミズだ。ねぇミミズがいるよ」
  「気持ちがいいから出てきたのかな」
  「ミミズばいばぁい」
  「あ、鳥だ」
  「ミミズ食べてる」
  「おなかすいた?」
  「おいしいのかなぁ」

  隣の畑では草刈りをしている。草を刈るたびに悲鳴が聞こえる。草の叫びだ。もう慣れっこになってしまった。でもいのちを刈っているという感覚は積み重なっていく。目をつむっていても無意識を感じられるというのも楽じゃない。最近ではザワザワとした何か落ち着きのない無意識を感じることも多くなった。意識できないことがあるのはいいことなのかもしれない。ここの畑は去年休ませたので、今年は野菜を作る。七夕までの雨の降った日に種をまかないと、ニンジンはこの辺りでは大きくならない。雨が降らないので人が水をまくと、そのあとも水をまき続けないとならなくなる。

  「ニンジンも人もおんなじだなぁ」という声が頭の中でした。たけさんだ。

  「たけさん、からだの具合はどう?」
  「ボチボチだぁ」
  「資料館のボランティアは?」
  「やってるよ」
  「そう。トマトの苗どうする?」
  「来週たのむよ」
  「わかった」

  たけさんは被爆者だ。生命科学者で大学教師で百姓だ。畑は仲間が集まって手伝う。たけさんの畑だけでなく、ここらの畑はみんなそうだ。体力のあるひとがないひとを手伝う。たけさんは小中学校などで被爆体験の語り部をずっとしている。前にたけさんからこんな話を聞いたことがある。

  「あるアメリカ人が私の話を聞いたあと、でもごめんなさいとは言えません、おかげでたくさんのアメリカの若い兵隊の命が助かったのだからと言っていたんだ。考えさせられたよ。だからもう恨みを捨てた。語り部をしてるとわかるんだ」
  「なにが?」
  「恨みがあると無意識に伝わることがさ」
  「そうなんだ」
  「だれでも無意識を感じてるんだよ。伝わるのは話じゃない。今の自分の心の状態がそのまま伝わるんだ。うそはつけないよ。  いま楽しいかい?  自分のこと気に入ってる?」
  「うん」
  「そりゃあいい」

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第六場           大学へ

  朝、チ、チと鳴く声がするので窓を見ると、コゲラが庭の木を跳び登りながら虫をつついていた。

  川沿いの道ではたくさんの鳥たちがにぎやかだ。並んで空を旋回する二羽のカモ、ムクドリたち、水面(みなも)と畑を行き来する白い腹に白と灰黒色の羽根の尾長なハクセキレイ、ツグミやミソサザイもいる。梅雨時の初夏は鳥たちが忙しそうだ。栗の木の花が落ち、花の出ていた所に、柔らかくて透き通るほど青い、二、三センチほどのイガになった栗の実がたくさんついている。動物たちの騒がしさに比べると樹たちは静かに毎年の生活を送っているように見える。ムクドリが滑空している。天使の翼のような、三角に折れた翼端の一枚一枚の羽根をフラップのように拡げて、ムクドリたちが滑空している。水が張られた田の畦にアオサギが一羽たたずんでいる。田は水を引いたばかりだ。植えたばかりの苗がちょっと曲がって並び、水面(みなも)に反射した光を受け、そよかぜにきらめいている。季節の変わり目が好きだ。もうどこかに夏がいるような気がする。

  大学のある大きな街に着いた。駅中にあるスターバックスでコーヒーを飲む。ガラス越しに、身体をひねって人ごみをすり抜けながら歩く人びとが見える。腕に傘を引っ掛けたひとが入ってきた。カウンターの向こうにいる人が問いかける。

  「そとは雨なんですか」
  「ええ」
  「ずっと中にいたものですから」


  学内の図書館に入り、本を読んでいる。雨の日の図書館はしずかだ。

      「まず自然を知り、生物を知り、人間を知るという一見迂遠な方法こそ
      本物の科学技術を生む近道ではないか」

      「人間の中には、他人との接触で育っていく自分と
      自分自身とのつき合いの中で大きくしていかなければならない自分とがある」

      「科学を頭と同時に心でとらえるという入り方があってもよいと思うし
      科学とはそういう面があると思う」

            「生命科学者ノート」 中村桂子

  遺伝子解析の課題図書でワトソン・クリックのDNA発見ものと並行してこんな本を読んでいると「知る」ことと「わかる」こととは違うんだなと思う。「わかる」には「感じる」が欠かせない。毎日の生活の中で五感で感じることが、「わかる」という感覚を支えている。他人との接触で育っていく自分にも、絆の中に隙間を感じることがある。隙間を感じることで、自分が育っていく。大学の講義を選ぶのにシラバスでどんな内容かチェックしたとき、随分と毛色の違う本がペアになっていると思った。それに最近の授業はアクティブラーニングが盛んだ。白熱教室的にけっこう本質的な議論になることもあっておもしろい。

  たけさんの気息に合わせてみた。

  「やぁ」
  「たけさん、このあいだのセッションはおもしろかった」
  「それは良かった。どこがおもしろかった?」
  「みんなが議論にのってきたこと」
  「そのために演劇もやっているからね」
  「へぇ~、そうなの。だからのせ方がうまいんだ」
  「ははは、それだけじゃないんだけれどね」
  「ひょっとして、無意識も使ったりして?」
  「それはないさ。わかるひととわからない人がいるからね」
  「IPS細胞の話もおもしろかった」
  「そうかい」
  「ひとには二万三千個も遺伝子があるのに、その中のたった四つの遺伝子の働きでIPS細胞ができるなんてね」
  「その中のひとつを別のものに代えることもできるんだ」
  「え~そうなの?」
  「生きものってけっこういい加減だろ?」
  「うん」
  「この融通(ゆうずう)無碍(むげ)さが生きものらしくていいね」
  「ふ~ん」
  「と言うのは少し言い過ぎかな」
  「バックアップができている」
  「そうそう、それそれ」

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第七場           AI

          心よ、私を連れて行っておくれ
          遠くへ
          水平線より遠く
          星々よりももっと遠く
          死者たちと
          微笑(ほほえ)みかわすことができるところ
          生まれてくる胎児たちの
          あえかなる心音の聞こえるところ
          私たちの浅はかな考えの及ばぬほど遠いところへ
          連れて行っておくれ
          希望よりも遠く
          絶望をはるかに超えた
          遠くへ

          「遠くへ」 谷川俊太郎


  学内の部室で、

  「株価が乱高下したね」
  「高頻度取引 (HFT) のせいだろ」
  「またかい」
  「高頻度取引って?」
  「コンピュータが瞬間的に値段がちがう取引所を探して、安い値段で買い、高い値段で売るんだ。十万分の一秒の速さでね」
  「それでどうして株価が乱高下するの?」
  「いくつかのコンピュータが同じようなことをするから競合して暴走するのさ」
  「ふ~ん、なんとかならないの」
  「コンピュータは目標とたくさんの実例を見て、あとは自分で学ぶという方法をとっているんだ。だからどんな結果になるかわからないし、外からコントロールすることもできない」
  「株のディーラーの役目は暴走の監視人になっちゃうね」
  「そうかもしれない。コンピュータの発達に応じてひとの仕事も変わってくるね。もっと身近にも例があるんだ」
  「なんだい?」
  「ネットでものを買ってるときに、ショッピングカートに入れた値段が変わったことはないかい。すこしの変化だけど」
  「あるある。変だなぁと思っていたんだ」
  「あれはコンピュータがその時点のライバルの値段や客の情報によって変えているんだ」
  「え~そうだったんだ。AIの世界はまだまだ先だと思っていたけれどとっくに始まっているんだね」
  「目に見えない形でね。それがAIの特色でもある」
  「サーバーは見えるけどクラウドは見えない」
  「そうだね」

  AIはいわゆるプログラムとはすこし違う。センサやアクチュエータと結ばれると、視覚や聴覚や触覚を得て、自律的にまわりに働きかけることができる。そしてそれは法人に似ている。それが結果として罪を犯しても、法人を構成する特定の個人が罪をかぶるかどうかはわからないように、今のところAIはその持ち主のために仕事をして、社会全般に及ぼす影響は考えない

  「人の場合、自分のことは自分が一番よく知っていると思う一方、ときどき、自分自身ほどわからないものはないと思うけど、AIにもそう期待したいところだね」
  「アハハ、まったくだ」

  あるひとが、自分とは創るもので探すものではない。そのために大切なことは感覚つまり具体的な世界を身をもって知ることで、そこをなまけるとあとが続かないと言っていた。AIも色々具体的な世界を身をもって知ることが大事なのかもしれない。最近ロボットの手足の感覚器と、神経索に相当するリザーバーや電子脳とのあいだでディープラーニングを試みているという話がある。

  「いいことだね」
  「少なくとも株の売買に遅延時間を持たせることで HFTの弊害をなくそうなんていうのは対処療法だということだな」
  「そう、どんどんとこの手のことが増えそうでこの先むずかしいね」
  「このままだとぼんやりする時間をなくした時間泥棒のスマホの二の舞いだ」
  「レイチェル・カーソンの指摘は具体的なモノに対してだったけれど、今度のは目に見えないコトに対してだね」
  「人がコンピュータより優れている点は忘れることができることさ。記憶の残り方でその人が形作られていくんだ。生物学によると指がのびて手の形ができるのではなくて、指の間が死ぬことで指が作られるそうだ。自然とはそんなものだ。人の心だって意図してつみあげて作ったというより、たくさんの過去を忘れることで自然にできたものさ」
  「一見、無駄に思える体験がそうでもないということかな」
  「そうだね」
  「本当に身につくのはかえって無駄なことの方かもしれない」
  「道草は楽しいし」
  「無駄のできるときは楽しんでおくにかぎるね」
  「あ、話ながらネットショッピングしてたら、打ち間違えた」
  「どうしたの?」
  「クーベルチュール、十一パックも頼んでしまった」
  「あ~、その無駄はたしかに身につくよ」

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第八場           大都会

  夏の朝の空気の中を歩いている。道路の向こうに見えてくる高層ビル。ビルの谷間の歩道に酔いつぶれた人が寝ている。若者がひとり、わめきながらうろついている。なにを言っているのだろう。わからない。頭の中は今日のこれからのことでいっぱいだ。最寄りの駅まで歩く。日向(ひなた)の歩道にギリシャ文字のイプシロンのように干からびたミミズが固まっている。目を通りの向こう側に移すと、強まる陽射しを受けて夾竹桃があかあかと揺れていた。

  乗りかえ駅についた。路線を乗りかえなければ。プラットフォームの人波の中、駅の階段を下りようとしたとき異様な感覚が襲ってきた。ひとが流れ落ちる水のように動いている。自分が滝に落ちてしまうのではと感じた。怖い。灰色の無意識の中にいくつかの悲鳴を感じる。怖いよと。こんなに人が多くてはどこから声がするのかもわからない。慣れっこになってしまった感覚がまた積み重なっていく。無意識が感じられなければいいのにと思う。

  乗りかえた電車のなかで背中にコツコツと当たるものがある。振り向くと肩にふたつショルダーバッグを掛けたひとがいる。すこし前に出た。「アホ」という声が頭の中でした。ショルダーバッグがスッと動いて扉の方へ移動した。 しばらくして、車両のなかに声が響いた。

  「何やってんの。わたしの足を踏んだのがわかんないの。このまぬけ!」

  扉の前のひとが謝っている。隣では年輩の男たちが振込詐欺にあった話をしている。
  わかっているのに何で引っかかってしまったんだろうと意気消沈している。

  「それがさ、頭が回らなかったんだよ」
  「どこか身体の具合がわるいんじゃないか」
  「そんなことはないんだけど変なんだ。気が散って全然注意できなかった」


  駅から学校まで、街中を流れる川に沿った歩道を歩く。朝日が浅い川底を金色に照らし、鮒(ふな)かウグイか鮠(はや)か、小魚たちが泳いでいるのが見える。波紋が立った。水面をアメンボがスーッと通っていった。学校のことを忘れていたことに気づいた。街中の生活で、いつも自分の身体と心を整えているのは難しい。でもこんなホッとするときもある。そういえばじゅんちゃんはいつ会っても穏やかだ。どうして、と思う。気息を合わせてみる。

  「じゅんちゃん、どうしていつもそう落ち着いているの?」
  「う~ん、自足しているからかなぁ」
  「自足?  自立じゃなくて?」
  「うん。ひとの考えは尊重するけれど人に何かを期待しない」
  「それって自立とどう違うの?」
  「自分で感じて、興味をもって、悩んで、楽しんで、自分の中で終わる」
  「それじゃあ一人ぼっちでさみしいじゃない」
  「そうでもないよ」
  「どうして?」
  「どうしてってみんなが来るよ」
  「あ~、確かにね。でもじゅんちゃん、無意識を使ってるんじゃない?」
  「そんなことはしないよ」
  「そうだよね。最近、気づかないで振込詐欺に引っかかってしまったっていう人が多いぃんで気になってるんだ」
  「だれか無意識を悪用していないといいけど」

[エノキの爺さん(夏]   休みの日の川沿いの道。地平線からはやばやと顔を出した太陽が、ジリジリと、本当にジリジリと音がするように照っている。遊歩道を歩いていると、危ない、という感覚が飛んできた。自転車が右ひじをサッとかすめて行った。スマホを眺めながらフラフラと走っている。あぶないなぁ、とブツブツ言いながら感覚が飛んできた方角に目をやると、コナラの梢のてっぺんにアオサギがとまってこちらを見ていた。

  気がつくと、濃いみどりに包まれたエノキのじいさんがオレンジ色のお化粧をしている。枝のあちこちに小さなオレンジ色の実がついている。ヒヨドリがきて様子を見ている。アゲハチョウがひらひらと舞って来て、梢の上の方まで流れていった。上昇気流があるのだろう。ルピナスの花が風に揺れている。あしなが蜂がその風に乗ってきてあちこち品定めしている。むかしプールで立ち泳ぎしたが、あしなが蜂は立ち飛びだ。蜂はその姿のままとなりのオクラの畑へ行き、整列したセイタカオクラの花のあいだを飛び回っている。一列、二列、三列 ... 六列、七列、八列。オクラの列はずっと続いている。どこかで歌う声がする。

          蜂はお花のなかに、
          お花はお庭のなかに、
          お庭は土塀のなかに、
          土塀は町のなかに、
          町は日本のなかに、
          日本は世界のなかに、
          世界は神様のなかに。

          そうして、そうして、神さまは、
          小ちゃな蜂のなかに。

                      「蜂と神さま」    金子みすず




  「しーちゃん?」
  「わかった?」
  「うん、なに?」
  「その蜂の目、わ・た・し」
  「ああ。 今、どこ?」
  「地球の裏の大都会」
  「ごくろうさま」
  「そっちもね。エノキのおじいさんによろしく」


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第九場           なつかしい原っぱ

[カラスウリ(秋)]   町中を歩いていると、あざやかなオレンジ色が目に飛びこんできた。カラスウリがひとつ、材木屋の塀越しにゆれていた。川筋のむくろじの葉の緑が色あせてきた。栗のイガが割れ、茶色い栗の実が顔を出している。たけさんの畑のトマトはすっかり葉が枯れて、できそこないのトマトがいくつかぶらんと残っている。そろそろ片づけなければと思う。身体を動かすと考えが進む。勉強と畑仕事はいいコンビネーションになっている。

  「そうだろ」という声が頭の中でした。

  「たけさん、トマトどうする」
  「おしまいにしようか。  ところで海馬のことは知ってるかい?」
  「脳にある海馬のこと?  海馬の大きいひとは一夜づけ勉強につよい!」
  「あははは、それは初耳だね」
  「それでどうして海馬?」
  「うん、からだを動かすと、海馬に蓄えられたものが大脳皮質にすばやく移るのさ」
  「え~、そうなんだ。でもどうして?」
  「運動すると神経の伝達索がよく発達するからさ」
  「じゃぁ、ほんとうに勉強と畑仕事はいいコンビネーションなんだ」
  「そうだね、でもよく寝ることもだいじだ」
  「どうして?」
  「記憶の移動は寝ているあいだに起こるからさ」
  「なるほど」
  「面白かったかな」
  「ありがとう、たけさん」

  そういえば以前、倉田さんに植物の時間について聞いたとき、こんなことを言っていた。

  「植物の時間をつかさどる蛋白質は動物のものとは違うけれど、その機構は同じなんだ。時計遺伝子をコピーしたり妨げたりするフィードバックループの形をしている。そして一日のそれぞれ違う時間にそれぞれの蛋白質をつくるように、ある一連の遺伝子が指令を出しているんだ」

  植物には海馬のようなものはないけれど、生命活動の基本となる時間については人と同じらしい。動物は移動するから場所の記憶が大事だ。場所と時間を関連づけて記憶する。植物は時間をどんなふうに記憶するのだろうか。今年も庭先のシュウメイギクが花を咲かせた。毎年、日の出入りを感じているような気がする。だとすると植物はどの細胞も光を感じ、時間を覚えているのだろうか。


  就活で帰省したので、何年かぶりに原っぱのある山に入ってみる。今では林の中に小道がついているので薮漕ぎをすることもない。原っぱは三つ葉のクローバーに覆われていた。ちょっとほっとする。緑の絨毯の上に仰向けになり、ふぅっと息をついた。ここは今も静かだ。少し汗ばんだ体にそよかぜが心地よい。あちこちにドングリが落ちている。気がつくと緑色のものが多い。原っぱには、シイ、カシ、ナラ、タブ、カシワ、カエデといろいろな樹があった。あたりを見まわした。何本かの樹がなかった。代わりに杉の苗木がきれいに植えてある。 小道の方から笹がすれる音がする。男が二人、原っぱに入ってきた。立ち上がって見る。

  「ビックリした。イノシシがいるのかと思いましたよ」
  「こんにちは。驚かせてすみません。いい天気ですね。ところで楓の樹は切ったんですか?」
  「ええ」
  「ふむ。残念」
  「欲しいという人がいたのでね」年長の方の男が言う。
  「チョウやハチ、それにカブトムシやひよどりも来ていたので」
  「杉には来ないかもしれませんが、いい木材になりますよ」
  「営林署の方ですか?」
  「ええ」
  「そうですか」
  「ここらにお住まいですか?」
  「前によく来たものですから」
  「そうですか。杉の苗木の根元を踏まないようにしてくださいね」
  「わかりました。では」

  わりきれない気持ちを抱えて山をあとにする。大抵の人は「かえでの木」という言葉を聞いたり、読んだりしたことがある人であっても、楓が実際にどんなかたちをしているか詳しくは知らない。だから話が合わないことがあってもしかたがないと思う。でも営林署の人たちは樹のプロだ。その人たちとどこか言葉が通じあわないことが悲しかった。同じ言葉を使っていても、相手がその実像を思い描けなかったならば話が通じない。

  そんなことを考えながら山道をぶらぶら下っていると、頭の中で声がした。

  「どうしたんだい」
  「あ、たけさん。営林署の人とちょっと話があわなくて」
  「ざわざわした無意識を感じたんでね。それで声をかけたのさ」
  「日本の林業はむずかしいなぁと思って」
  「そうだね。そうそう、ちょうど良い話ができるやつがいる。おい、圭」
  「なんだい。たけさん」
  「圭、林学士のお前さんなら話になるだろ?」

  ということで、圭を交えての話は興味深いものだった。

  1970年代以降、日本の林業は経済的に成り立たなくなってきたので、環境を名目に森林整備の公共事業として行われてきた。でもそれではいつまでたっても良くならないことはわかっていた。日本の森林をいい状態で維持するには、森づくりの考え方や仕組み、それを支える人を育てること、山をもつ人、管理する人、使う人がお互いに連携できる社会システムが必要だということだ。今の漠然とした環境保全への想いや、木材生産という狭い範囲のことだけでなく、森の資源を利用しながら、次の世代に負担をかけない森の再生産を考えていかなければならない。とりあえずはそう言ったことを考えるのに必要になる科学的なデータがないので、そこから始めているということだった。

  「データづくりは研究者の役割だからね」
  「次の世代に負担をかけないって、具体的にはどうするの?」
  「少しずつ伐って、伐ったら植えることを繰り返すんだ。当たり前のことだけれど」
  「やっているような気がするけど」
  「ところがそうでもないんだ。皆伐採と言って、広範囲を伐採して放置するようなことが行われている」
  「もったいないね」
  「森の色々な役割がなくなっちゃうね。雨が降ると土砂崩れが起きやすくなる」
  「そうだね。下草があればだいぶ違うんだけれど」
  「それで、データづくりは進んでいるの?」
  「ぼちぼちかな」
  「何か手伝えることはない?」
  「ありがとう。子どもたちにこの話をしてくれるとうれしいな。森づくりは息の長い仕事になるからね」
  「そうだね、わかった」

  森の資源利用や再生産の問題は一筋縄ではいかないなぁと思いながら、なつかしい原っぱのある山がなくならないようにするにはどうしたらいいのか、そんなことを考えながら山道を下って行った。

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第十場           自由と責任

  木枯し一番が吹いた。川筋の道を通るとたぶのきの葉が茶色くなって半分落ちていた。むくろじも黄葉が進んでいる。カラスウリがひとつ、赤いまま残っている。もちのきのオレンジ色の実が赤くなってきた。アオサギが樹上で一休みしている。

  「じゅんちゃん、寒くなったね」
  「やあ、相変らず忙しいかい」
  「まぁ、ぼちぼちかな」
  「ぼちぼちはいい言葉だなぁ、ぼくも言ってみようかな」
  「ははは、MIKADOがぼちぼちというのもおもしろいね」
  「ふふふ」
  「じゅんちゃんはなにを信じているの」
  「なにかなぁ」
  「じゅんちゃんは自由?」
  「自由だよ」
  「でもMIKADOはやめられない」
  「やめることができるよ。そうしないだけさ」
  「なぜ?」
  「信じているものがあるからかな」
  「なにを?」
  「さぁ、なんだとおもう?」

  姿は見えないけれど、じゅんちゃんの目が遠くを見ているような気がした。じゅんちゃんのしずかな、でも暖かな気持ちが伝わってくる。

  「じゅんちゃん」
  「なんだい」
  「MIKADOには権限があるの?」
  「どうかなぁ。どう思う?」
  「うわべはあるような、なかみはないような、かな?」
  「シンボルだね」

  向こうの山並みを見ながら川沿いの道を歩いている。朝日があたって山肌が金色にかがやいている。稜線のキレットが落ちこんでくっきりと見える。そのとき頭のすぐ上を、アオサギがゆったりと飛んで行った。三十センチほどの川魚を横串に咥(くわ)え、川の上を飛んでいき、そして舞い降りた。小学校一年生のときのぼくは東西南北がわからなかったことを思いだした。それから顔ってすごいなぁ、手がしびれるくらい冷たい水で洗ってもいい気持ちだし、泣いたり、笑ったり、怒ったり、見ればすぐわかるし、顔ってすごいなぁと思ったことも。あのころは全部が自分の時間で、頭でなく、細胞がよろこんでいたんだと思える。今そんなワクワクすることがあるだろうか? 今は考えることが問いをつくることになっている。

  「ボンジュール、アンバゲット、シルブプレ」
  「やあ圭、このあいだはありがとう」
  「いやいや。うわべはあってなかみがない。これはぼくの話をしてるなと思ってさ」
  「よくわかったな、この地獄耳(笑)」
  「うん。なかみがないぼくとしては最近、家族に対する責任ってなことを感じることが多くてさ」
  「ふ~ん、それで?」
  「家族をもったのはぼくが進んで選んだことだ。責任がある」
  「うん」
  「でも日本に対する責任ってあるんだろうか?」
  「どういうことだい?」
  「このあいだたけさんの話で、あるアメリカ人がたけさんの話を聞いたあと、ごめんなさいとは言えません。おかげでたくさんのアメリカの若い兵隊の命が助かったのだからと言っただろ?」
  「うん」
  「国の責任はどこまで個人の責任かと思ったのさ」
  「このあいだのAIの話を思いだすね」
  「法人を構成する特定の個人が罪をかぶるかどうかはわからない、かい?」
  「あきらかな関与があれば罪があるけれどね」
  「あきらかなっていう所がむずかしいね」
  「時代に流されたっていう人が多いからね」
  「じゅんちゃんはどう思っているの?」
  「もの心がついてからずっと、そのことを考えてきたんだ」
  「それで?」
  「いまも、いつも、考えているということかな」
  「権限のないところに責任はないと思うよ」
  「そうだね。でも自分で選んだものには責任がある」
  「良い未来を残そうという人がいるけど、そうかなぁとときどき思ってしまうんだ」
  「ふ~ん、それで?」
  「未来の子どもたちに残せるのは自由に選べるということだけだと思うんだ」
  「なるほど」
  「自由に選んでいるつもりでも選ばされているっていうこともあるよ」
  「へぇ、どんなことだい」
  「この間の振込詐欺のことだけど無意識に誘導があったようなんだ」
  「え、そうなんだ」
  「自由には危険が伴う・・・か」
  「詳しくはまだよくわからないんだが、たけさん達が調べてる」

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第十一場           振込詐欺

  たけさんの話では振込詐欺の一部に無意識な誘導があるということだ。たけさんの友達に「光通信回線に無料で変えられますよ。どうですか」という電話がかかってきて話していると、ざわざわと感じるものがあり、これは変だなと思った。ざわざわを送り返してやると電話が切れたそうだ。

  「それでどうする」
  「これからはおかしな電話がかかってきても気づかないふりをしよう。まず正体をつきとめるんだ」

  しばらくは何事もなく過ぎた。帰省したある日、四季の道を区役所の方へ歩いていると前を歩いていたおばさんが急に立ち止まり、スマホを耳に当てた。見ていると始めは怪訝(けげん)な感じだったその顔の表情がだんだん真剣になっていく。こちらを見た。鋭い目だ。そして言った。

  「行くわよ。手伝って」
  「えっ」

  頭の中でたけさんの声がした。

  「ハルさんだ。詐欺の電話があった。手伝って」

  ハルさんの後をついていく。人が多いので大変だ。このおばさん、脚が速いななどと思いながら、見失わないようにと緊張する。紀伊国屋の前まできて立ち止まった。隣の外貨両替所を見ている。スタスタとそばのATMへ向かう。

  通りすがりに耳元でささやいた。

  「柱の脇にいる男をみて」

  学生風の男が柱の陰にいた。目が合った。ザワザワと鳥肌が立ってきた。男は目をそらすとスッと外に出て行った。

  「どうだった。知っているひとみたいだったね」
  「佐藤です。小学校で同級生でした」
  「感じた?」
  「ええ」
  「あたしも。突き合わそうか」

  たけさんにわかったことを話した。彼は心理学を専攻する学生で、認知心理学にAIを適用して振込詐欺をしていた。

  「これからどうする、たけさん」
  「ハルさんはどうしたい」

通り過ぎるクルマからの反射光がショートボブの横顔を照らし、髪が茜色に揺らめいた。顎を上げ、フッと息を吐いてから、

  「急ぐことはないと思う。どう出てくるのか見てみたい」
  「じゃぁもうしばらく様子を見よう」

  ということでハルさんとはあらためて自己紹介した後、タカノで一休みしようということになった。ハルさんにはどこかで会ったような気がして、不思議な気分だった。昼に近かったがそれほど混んでなく、フルーツサンドを楽しめた。食後のコーヒーの香りを味わっていたときハルさんが言った。

  「そのコーヒー、熱い?」
  「ええ」
  「何度くらい?」
  「温度計がないので何とも」
  「温度計があったらわかるの?」
  「まぁ」
  「ホント? シュレディンガーの猫は見えた?」
  「あぁ、そういうことですか」
  「そう。それでどうしたらいいと思う?」
  「へたにいじらないで、不確定なことは放っておく方がいいですよ」
  「そうねぇ。やっぱりそうかな」

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第十二場           ふもとの街(まち)

  今日は久しぶりにみんなに会う日だ。やっぱりオフラインで話せるのはいい。通りを歩いているとこんな声が聞こえてきた。

  「思ったよりスピードハンプが緩やかね。子供をのせたバギーも通れるわ」
  「ハンプコースを旧市街地だけでなく、漁港まで延ばしたらどうだろう」
  「それなら農場の方にも延ばしたいな」

  「スピードハンプを通過するときの音がうるさいって近所から苦情が出てるって聞いたけど」
  「よほどとばしてたんじゃないの」

  「車のスピードが出せないから時間指定の配達はあがったりだよ」
  「配送の考え方を何か変えられないかな?」
  「便利さやサービスを求め続けると・・・ 」

  駅前の路上でみんなに会う。久々に帰省しているじゅんちゃんもいる。

  「じゅんちゃん、ひさしぶり」
  「おす」
  「やぁ、圭。かわりないね」
  「おっとっと」
  「圭、クルマに注意しろよ」
  「あれならぶつかっても平気さ」
  「でもぶつからない方がいいだろ」
  「まぁね」

  街は全ての道路にスピードハンプを設置することを目指している。モデルケースとなる旧市街の道路にはスピードハンプが設けられている。クランクもあちらこちらにあるので、クルマはノロノロとしか走れない。街の公共の場、とくに、身近な道路が生活の場になっている。

  「じゅんちゃん、いいことをしたね」
  「ただ声をかけただけさ。みんながそう感じていることを」
  「そうなんだ」
  「おれもそのみんなの一人さ。道路は車のものだと思っていたけれど、じゅんに言われて、みんなのものだと気づいたんだ」
  「ドライバーもそう思ってくれるといいなぁ」
  「昔はみんなドライバーだったけどな」
  「今は自動運転が多いね」

  街の中をクルマがノロノロと走っている。乗っている人はほとんどとなりの人と話しをしたり、雑誌を読んだりしている。

  「クルマもずいぶん変わったね」
  「自動運転中の事故保険ができてからだよ」
  「事故保険ができてからほとんど事故がないのもおもしろいな」
  「街も変わったね」

  甘味処に寄り、他愛のない話で笑い転げたあと、川沿いの遊歩道を歩く。樹々を眺めていると視線が落ちつき安らぐ。オオサギ、カワウ、コサギが三羽、ここは鳥たちで賑わっている。アオサギが樹上で休んでいる。鷹の子が二三羽のカラスとなかよく同じ木に止まっている。エノキのじいさんの根元に生えた小木の葉が、朝日の中で白く光っている。ときおり強い風が吹く。アオサギは羽をたててダルマのように丸くなっていた。馬酔木の白い花が下の枝から咲いてきている。

  「エノキのじいさんは変わらないなぁ」
  「何十年も・・・・・何百年もかな」

  ふと、「感じる」と「無意識」は切り離すことができないなぁと思った。養老孟司さんが、器官が機能することが器官の構造の維持にとって不可欠なんだ、構造と機能とは同じものの異なる見方に過ぎないと言っていたことを思いだした。同じものを機能から見ると「感じる」で、構造から眺めると「無意識」になるのかと思った。脳はその構造を維持するのに意識が必要だったという説がある。ニワトリとタマゴのような話だなぁと思う。今のニワトリもタマゴも始祖鳥からの変化の結果だ。意識はどのあたりから始まるのだろうか。感じることが無意識と同じなら、無意識はいのちの始めからあるのか。とりとめないことを考えながら歩いていたら、うれしそうな感じが伝わってきた。その方向に目をやると、マルハナバチが馬酔木の白い花のまわりを飛び回っていた。

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第十三場           グリア

  じゅんちゃんを誘って、しばらくぶりに、ぼうず山を訪れてみた。途中、小学校のまえを通ると、校舎のガラス窓に人影が映っていた。ひと昔まえの自分たちがダブって見えた。通り過ぎるとき、まぶしい真昼の陽光がガラス窓を輝かせ、残像を呑みこんだ。道路を渡り、細い坂道に入る。今は山のふもとまで、ギッシリと家が建っている。坂をすこし下ったところにある石段を上っていく。途中にある小さなお宮は、ひと昔など何のことはないという風に、以前とすこしも変らず、相変らず古びたたたずまいを見せている。林の中の小道を歩き、原っぱのある山に入る。原っぱは三つ葉のクローバーに覆われていたはずだったが、あちこちの木の根元に見なれない白い花が群生している。

  「マツユキソウだね。だれかが庭の花から移したのかな」
  「クローバーの花が咲くにはまだ時期が早いから目立つね」
  「待つ、雪か。ちいさな花なのに、イメージをふくらませる花だね」
  「いいグランドカバーになってる。これなら、土も流出しなくていい」
  「上の木はモチノキかな」
  「赤い実が、冬場の鳥たちのいい栄養補給源になりそうだ」
  「ふふふ、環境問題に敏感なんだね」
  「圭の影響かな。じゅんちゃんはどう?」
  「やっぱり気になるけど、地球は今、温暖期と寒冷期の端境期にあるんだ。どう思う?」
  「温暖化と寒冷化は地球規模での炭素循環により数万年単位でくり返されている。これでどう?」
  「とすると?」
  「二酸化炭素の問題は、そう単純な話ではない?」
  「そういうことだね」
  「ふむ、じゅんちゃんの目下の関心事について聞かせて?」
  「グリア細胞のことかい」
  「そう」

じゅんちゃんの話を要約するとこういうことになる。脳内の全細胞の8割以上を占める「グリア」は、よく知られているニューロンの間をただ埋めるものと思われてきた。しかし最近、グリア細胞は、ニューロンの活動を感知して、その働きを左右できることがわかってきた。ニューロンとグリアの依存関係やグリア細胞の種類、ニューロンとはちがう役割があるらしいこともわかってきたんだ。

  「グリアはもうひとつの脳って言われている。精神疾患や認知症、記憶や無意識にも関わっているらしい」
  「ただの梱包材じゃぁなかったということ?」
  「そう。でもグリアの研究は今世紀に入ってからなので、まだわかっていないことの方が多いぃんだ。広い海原を探検しているような気分さ」
  「たとえばどんな島が見つかったの?」
  「うん、たとえばね、身体の末梢神経にはシュワン細胞というグリア細胞があって、カルシウムイオンによって時速300キロで情報伝達している」
  「それじゃぁ、脳だけじゃなく、体中にあることになるね」
  「そう、シュワン細胞は体中でコミュニケーションをとっている」
  「ふ~ん、なんか、細胞たちが井戸端会議しているみたいだね。そのほかには?」
  「脳と脊髄にはアストロサイトとミクログリアがあって、ニューロンのデザインや補修を行っているんだ」
  「ホント、すごいなぁ、全然知らなかった。どうやっているの」
  「それぞれが互いにコミュニケ―ションをとって行っているんだ」
  「あそこがまずいから、こうしようとか?」
  「まぁね、おもしろいだろ?」
  「うん、わくわくする」
  「ぼくは意識と無意識の関係がわかるんじゃないかって期待してるんだ」
  「それは、機能的な無意識はグリアという構造だということ?」
  「グリアはミッシングピースになるかもしれないね」

これはおもしろそうだ。 「センス・オブ・ワンダー」で レイチェル・カーソンは、「美しさや神秘を感じとれる人は、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれたりすることはけっしてない。たとえ生活の中で苦しみや心配ごとにであったとしても、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけ出すことができる」と言っていたが、生命にはまだまだたくさんのわくわくすることがありそうだ。クローバーの原っぱの中に腰を落ちつけて、ふたりして日向ぼっこをする。冬越しのべにかなめの葉が風にそよいでいる。そのやせた葉を通して光がさし、縁は茜に、中は浅黄に輝いている。葉がゆれるたびに、茜色がキラキラして、太陽のコロナのようだ。

  「じゅんちゃん、きれいなものを見ても、言葉にできないときがあるね」
  「うん、言葉にしてしまうと、そのまま伝わらない感じがするときがある」
  「でも言葉にしないと、何か心に感じた、ということだけしか残らないからもどかしいね」
  「そうだね。でも言わないでも、伝わることがあるよ」
  「そう?、不思議だね」

しばらく、お互いになにもしゃべらず、ぼうっとしている。口をきかなくても、気にならない存在、でもそこにいるだけで安心する、そんな友達がいてよかった。

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第十四場           平和

  八月も終わりになると、そこここに秋の気配がする。街中でもアキアカネが飛んでいる。そしてもっと大きなものも。

  突然の連続した爆音に圭の声が聞こえない。口パクの顔がおかしくて笑ってしまった。

  「うるさいなぁ」
  「スーパーホーネット。戦闘機だよ」
  「すごい音だね」
  「マフラーがついていないからね」
  「まぁそうだろうね」

  経済的な価値が世の中の基調であるかぎり、それを当然とする人の行動はかわらない。J・P・ホーガンのSF 「断絶への航海」に登場するケイロン社会のように、人からの尊敬が基調になる社会でもない限り、警察が要るように軍も要る。

  「ふ~ん、それでSFの中ではどうしてそんな社会ができたんだい?」
  「たしかケイロンでは物資の自動生産が前提になっていた。そのほかもろもろあったけどね」
  「やっぱり経済か」
  「まぁそうだけど、もろもろの中にひとの意識というのもあったんだ」
  「良い経済があっても、人がポイントということかい?」
  「うん」
  「いつでもどこでも、近所にやっかいものが来るのを拒むのが普通だからなぁ」
  「だからSFでは価値基準を変える方にしたんだろうね」
  「ケイロン社会って?」

  それならばどうしたら基地を無くせるのか。軍も警察も要るとしてしまったら、なかなか良い考えは出ない。それならばいっそのこと、価値基準を変える方にしたらどうかということにしたのだろう。変わったらどんな風になるのかを想像するためのSFとして読むことにしてみようか。ケイロンでは物に価値をおくひとたちはどう減っていったのかというと、多数派が徐々に少数派になっていった。心地良いものは放っておいてもゆっくりと浸透する。そして、浸透を阻むものは変わることへの恐怖であり、SFではそれらとの闘いがストーリーになっている。アドレナリンが出てけっこうおもしろい。

  「基地をなくすことはひとの価値観を変えることなんだね」
  「価値観と言うと大げさだけれど、ものの見方を変えればいいんだ。色メガネをはずせばいいのさ」
  「基地が一か所に長いあいだ集中してあることも問題だね」
  「いつでもどこでも近所にやっかいものが来るのを拒むのが普通の人間だからな」
  「できちゃったものはなかなか代わらない。どうしたらいいと思う?」
  「まぁいいかっていろんな所である程度やっかいものを受け入れることかな」
  「ふふふ」
  「どうしたんだい?」
  「また難しいことを言うなぁと思って」
  「まぁね」
  「だから意識かぁ。なかなか時間がかかりそうだね」
  「時間はあってないようなものさ。きみだって今、一億年前の星の光を見てるじゃないか」
  「そうだね。今と一億年前がくっついてる」
  「許すことがむずかしいんだ」
  「何のことだい」
  「時間がかかる原因だよ」
  「そうか・・・恨みを捨てるのはむずかしいからね」
  「退屈と違って、恨みをじっと抱えて眺めても大きくなるばかりかな?」
  「釈迦のさとりの修行に近いね」
  「ふ~ん、じゃぁ、みんなが釈迦になればいいんだ」
  「やってみるかい?  コスタリカみたいな国もあるし
  「平和は祈るものじゃなくて一人一人がつくるものだしね」
  「・・・・・」
  「平和には消極的な平和と積極的な平和とがあるって知ってる?」
  「消極的な平和って?」
  「国のあいだの力による平和」
  「積極的な平和は?」
  「社会にセレブとスラムの構造がなくなるとき」
  「確かに警察や軍や暴力団のいる今の社会では暴力が当たり前になっているね」
  「そう、解放の道具として使われている武器は豊かな社会が作って売っているし」
  「そうか、だからこの構造を壊すことが大事なんだ」
  「なかなか難しいことだけどね」
  「どうしたらいいんだろう・・・」
  「例えば、さっき言ったコスタリカは教育にお金をかけているよ」
  「教育予算はどこの国もきびしいよ」
  「そう、だからコスタリカでは軍備をやめて、教育に回したんだ」
  「軍隊がないんだ」
  「うん。だから外交手腕が要るね」
  「う~ん、これも難しそうだね」
  「でもみんなが小さい頃から自立していれば不可能じゃない」
  「リンカーンかい」
  「そう、人民の程度による政府、急がば回れさ」
  「ネットが普及しているいまなら、パラダイムシフトが起きても不思議じゃないね」
  「転換点にいるという意識が大事なのかもしれないよ」

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第十五場           夏休み

[夕焼け]    窓が一面の茜(あかね)色に染まっている。そばでおばあちゃんが言った。

  「夕焼けだね。いつ見てもいい。見飽きないねぇ」
  「カイザーゼンメル、買っておいたよ」
  「ありがとう。最近、朝のクロワッサンはちょっとね。あっさりがいいんだ」

  「お空が赤いよぉ。どうして?」
  「ちぃちゃんに見られて、きっとお空が恥ずかしがってるんだよ」
  「ふ~ん」

  夏休みももうすぐ終わりだ。キレットのある山の麓(ふもと)に来ている。ここから見る夕焼けは心にしみる。日が没しても残照を眺め、余韻を楽しんで座っている。
「本当にいいものは太陽の方を向いている」(「朝霧」北村薫)というけど、夕日は一人で見てもみんなで見てもいい。

  「学生が最近変わってきてさ、おばあちゃん」
  「ふ~ん」
  「なんとなく言葉が通じないような気がするんだ」

  おばあちゃんはベテランの音楽教師だった。今はこの家で一人、畑を耕したり、音楽を楽しんだりしている。音楽仲間が集まって今日もけっこうにぎやかだ。

  「タブレットで講義中の意思疎通を図ってるんだけど、なんとなくなじまなくてさ」
  「そうだろうね」
  「え、わかる?」
  「わかるさ、仮想現実だもの」
  「それってどういうこと?」
  「メディアの法則さ」

  おばあちゃんによるとマクルーハンの言った言葉だとのこと。メディアは身体の延長のようなもので、メディアの種類で受け止め方が違ってくる、その反動で切り取られる感覚もあるということだ。

  「パンを丸める手のひらの感覚、タブレットでわかる?」
  「そりゃぁ無理だ」
  「そういうこと」
  「そうか、視覚情報だけじゃぁだめ、ということだね」
  「まあね。仮想の感覚も現実とは違うし」

  小さい時から圧倒的に多い仮想の感覚で育つ子供たち。自然は自分の中にある、自然な善悪も自分の中にあるという考え方が通用しなくなる世界になるのだろうか。

  「教師はエンターテイナーだよ」
  「公務員じゃないの?」
  「両方かな」
  「エンターテイナーは難しそうだなぁ」
  「失敗しても大丈夫と思う器量を持つことが大事。七転び八起きね」
  「あ、それは任せといてよ」
  「小さいときに野原を駆け回って、よく転んでたものねぇ」
  「あはは」

  チェロの音が流れてきた。先ほどまでの弦楽四重奏はもう終わったらしい。廊下を渡り、居間兼食堂兼演奏ルームへ入っていくと、ハルさんがこっちを向いてうなずいた。

  「ハルさん、おさらい、もう終わったの」
  「まぁこんなもんかな」
  「中々なもんだ」
  「わかった風なことを。言うのは簡単だねぇ」
  「言うのは自由だし」
  「まぁそうだけど」

  夕食前のジャブを交わしながら、ハルさんの演奏後のちょっと上気した顔を見つめた。

  「佐藤たち・・」
  「居るところは分かったよ。そばへ行くと相変らずザワザワっとする」
  「だろうね。やめてないんだ」
  「やってみる?」
  「そうだねぇ。みんなと」

  集合場所は大学の研究室ということになった。

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第十六場           大学の研究室

  構内の並木道は黄色一色だ。銀杏(いちょう)の葉が散り始め、歩いていく肩や足元にふりかかる。文学部へと続く脇道からひとが出てきた。黄色い色彩の中に紅いコートが翻(ひるがえ)る。

  「ハルさん、補講はもう終わったの?」
  「うん、バッチリ」
  「今日はなに?」
  「青柳の影さす道を見返らで うわさ堤を行く人やなぞ」
  「何それ?」
  「江戸の狂歌。青柳の影がさしている道を見返ることもしないで、うわさにまみれた日本堤を帰って行くあなた、どうして、っていうこと」
  「ふ~ん、だれの歌?」
  「新吉原の遊女、浅茅生(あさぢふ)」
  「へぇ~、ビックリだ」
  「そうよ、だれでもいつでもどこでも自分を表現できるのよ」

  ハルさんの補講をつまみ食いしているうちに、レンガ造りの建物が見えてきた。

  理学部の研究室は海の中の漁礁(ぎょしょう)みたいだ。小さな部屋が整然と、また乱雑に集まっている。その中の一室で

  「たけさん、どうしたらいい?」
  「みんないるかい」
  「気息を合わせる?」
  「先ずはね」

  部屋の中の息が一つになった。五回になり、三回になり、やがて静かになった。そしてみんなの手から光がもれてきた。光が飛んだ。



  「風邪をひいたかな」

  どこかの大学のわりと広い実験室。整然と並んだ棚にむき出しの基板が置かれ、グリーンランプが点滅している。それぞれの棚からは光ケーブルの束が伸び、棚のあいだを走っている。

  「どうした」
  「ちょっと頭がクラっとした」
  「ちきしょう」
  「どうした、佐藤」
  「ノイズがする。頭が痛い」
  「少し休め。おかしいぞ」
  「今日は終わりだ」
  「まだ目標の金額になってない」
  「無理。やる気がなくなった」
  「しょうがねえなぁ」



  イチョウのプロムナードからちょっと入ったここの窓からは大きな楢ノ木が見える。風が吹き、周りがギザギザした葉っぱが左右に揺れ、葉に隠れたドングリの実たちがパラパラと降った。

  「ハルさん、転勤するんだって」
  「そう、ロンドン」
  「落ち着いたら呼んでね」
  「やなこった。おじゃま虫だ」
  「あ~そうなんだぁ」
  「そうだよ」

  小さなトトロが帽子をかぶったドングリの実を選んで拾い集め、ポケットをいっぱいにしていた。

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第十七場           パートナー

            海よ云ふてはなりませぬ
            空もだまっていますゆえ
            あなたが誰で私が何か
            誰もまことは知りませぬ

            「契」        石垣りん

  夕方の六時だというのに陽はまだ高く、リージェンツパークは散策する人々や芝生を駆け回る子供たちのざわめきにあふれていた。バギーからおろされた男の子が、ボールを追って噴水に入る犬を見てケラケラと笑い転げている。園内の動物園から散歩に出てきたのか、ペンギンの群れが近づいてきた。先ほどの子が駆けて行って、一羽のペンギンの顔をしげしげと見ている。ペンギンも小首をかしげて男の子を眺めている。男の子がしゃべった。

  「めめ。おはな。パプル」
  「ふふふ、ペンギンさんかわいいねぇ」
  「ペンギンさんおはな」
  「そうねぇ。でもくちばしなのよ」
  「・・・ちば。パプル」

  二人が互いに触れ合い、互いに相手をわかろうとする、それが人間としての関係。それはひとが精神的に成熟したおとなにならなければできないことと思われそうだが、母と子の触れ合いを見ているとその始まりに気づく。母親はくらしの中の創造的な仕事、例えば料理や裁縫、パンを焼いたり子供に歌を歌ってやったりすることで意識せずに自分を眺めている。創造的な活動の中に自分を忘れることでふたたび自分を見い出している。

  パートナーがきた。

  「パプルって?」
  「紫色」
  「くちばしは紫色じゃぁないじゃないか」
  「光の加減じゃない?」
  「でも」
  「でもでも、何でもいいの。あの子にはそう見えたんだから」
  「でもさ」
  「もう、理屈っぽいんだから」
  「まあね」
  「ハイハイ」
  「まぁ、いいか」
  「ふふふ、その前向きな、まぁいいかは好き」
  「ときどき後ろ向きなまぁいいかがあるのが玉に瑕だけどね」
  「そう言えばこのあいだ頼んだことやってくれた?」
  「え、なに?」
  「もう~、あれよ」
  「あ~忘れてた、ゴメン!」
  「愛してない証拠ね」
  「愛されることを望むのはいい。だがいつでも愛されることを望んではならない」
  「なに、それ」
  「リンドバーク夫人の言葉。あ、すぐやるから」
  「二つとないものなどなくて、二つとない瞬間があるだけってあれ?」
  「ピンポーン!」
  「うまくごまかされた気がするけど、まぁいいか」

  空をツバメが飛んでいる。左右から飛んできた二羽が空中でホバリングし、なにかを口移しした。すぐにまた左右に別れ、もと来た方へもどって行った。目のふちを何かが動いた。池の中で七十センチあまりの鯉が一瞬反転し、夕日がその側面をしろがね色に光らせた。

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第十八場           倫敦(ロンドン)

  森の中で道が二手に岐(わか)れていた。どちらも人跡があり、さてどうしよう、と思った。日はまだ高いはずだが、どんよりと曇った空のせいであたりは薄暗い。もう四月なのに気温は一桁で、ヒートテックを着ていてよかった、あせることはないと考え直し、脈がありそうな方を選んだ。しばらくひと気のない一本道を歩く。森の冷気が濃く感じられる。ふと、それが未来をまったく違ったものにした、という言葉が頭に浮かぶ。これはいけない。口笛を鳴らしながら息をゆっくりと吐いた。ドクンドクンと鳴っていた鼓動が一息ごとに弱くなり、そのうちにシーンとあたりの無音が聞こえてきた。遠くに人の声がした。やがて、

  「こんちは。いい天気だね」
  「えぇ、ロンドンらしい。ハムステッドはこっち?」
  「あぁそうだ。どっちを行ってもね。遠回りになるが、違う景色を楽しむのもいいもんだ」

  確かにそうだ。そのためにヒースにきたのだから。ここには標識もないし、ゆっくり行こう。しばらく行くと池が見えてきた。池のまわりの木々はまだ裸で寒々としている。湖面に何かいるなぁと近づいてみると、親ガモに見え隠れしてカモの赤ちゃん達が泳ぎ回っている。小さいときにお風呂に浮かべて遊んだ黄色いアヒルを思い出す。赤ちゃんの産毛は漆黒で、尖ったように水をはじいている。湖面を風が渡り、さざ波が立った。雲が切れ、一瞬陽がさしたように思った。目の前に女の子が立っていた。

  「ねぇ、ハルさんが呼んでるよ」
  「ずいぶん遠くまで呼びに来たね」
  「まあね。そろそろ休みは終わりみたい」

  やれやれ。ゆっくり行くのはまた今度だ。なんとかヒースを抜けて、近道の裏道をたどりながら駅前のパン屋さんまできた。パン・オ・ノアの焼ける香ばしい香りに引かれてドアをくぐり、ハルさんの機嫌の良くなるプンパーニッケルとみんなのためのフィセルを買う。工事中で石材がゴロゴロしている他人の家の裏庭らしきところをそっと横切り、ハルさんたちのフラットへ帰った。圭がキッチンの窓辺にある小さなテーブルに座り、外を眺めていた。

  「何してるんだい?」
  「退屈を眺めてるんだ」
  「へぇ~、そりゃぁ風流だね。それで?」
  「誰かがさ、退屈は小さくうっちゃらない方がいい、目の前に置いてそれが大きくなるのをじっと見ている方がいいて言ったんだ。 だからそうしてるのさ」
  「ふ~ん、で、どうだい?」
  「なんだか自分の中にネジをねじ込んでるみたいだ」
  「そりゃあ痛そうだね」
  「まぁね」
  「それで?」
  「ネジがさ、心棒になったみたいだよ」
  「そいつは良かったと言っていいのかな」
  「そうだね」
  「退屈なときは今しなくてもいい仕事や、義務だと思っていることや、社交上のちょっとしたことで気を紛らわせているんだ」
  「そんなときには良い方法があってね、生活を簡素にすることだよ」
  「簡素にって?」
  「見栄を捨てたり、体面を繕うことをやめたり、むやみに掃除することや、整理整頓しなくてはという気持ちを捨てることさ」
  「これは本当に必要だろうかって考えるということ?」
  「そんな自分のことが分からなければ、他人を分かることもできないしね」
  「でも簡素にしたらすることが無くなっちゃうじゃないか」
  「ところがどっこい」
  「ドッコイ何だい?」
  「これでやっと新しいことをする気が生まれるのさ」
  「へぇ~」
  「だまされたと思ってやってみるといい」

  そばでかなちゃんが積み木を積み上げている。見ていると違うおもちゃ箱からも三角屋根をもってきたりして積む場所を変えている。動かしていた手をしばらくとめて何か考えている風だ。真ん中へんの青い四角を黄色の円柱に替えた。積み木の塔の高さがとうとう一メートルを超えた。にっと笑い、どうだいという顔をした。

[窓辺]   「かな、すごいねぇ」
  「ほんと、色のバランスもいい。ビックリするね」
  「こんなに小さいのにねぇ」
  「エッセイストの岡部伊都子さんが、最後の瞬間まで自分を育てたい、今の呼吸より次の呼吸の方が心が開かれているようにって書いてたけど・・・」
  「けどなに?」
  「今まですごい向上心だなぁって思ってた。でもそうじゃない気がしてきた」
  「どういうこと?」
  「かなちゃんを見てるとただうれしいんだって思うんだ」
  「ふ~ん・・・ たまには良いことを言うね」

  窓の外に目をやると、ダブルデッカーから降りた買い物帰りのおばさんが、知り合いらしい女の子と立ち話をしていた。

  「何かおもしろいものがあった?」
  「あ、ハルさん」

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第十九場           CERN

  「ハルさん、話ってなに」
  「うん、バンドワゴン効果って聞いたことある」
  「勝ち馬乗り?」
  「佐藤たちがまた情報操作してるみたい」
  「振込詐欺はやめたのかな」
  「両方。お金がたまったんじゃない。手を拡げてる」
  「ますますモモの灰色の男達だね」

  ハルさんの話では、佐藤の仲間はネットワーク化して世界中に拡がっているということだ。このあいだの某国の大統領選挙でも裏で暗躍し、かなりもうけたと思われている。無意識に介入できれば人々は自分では操作されていると感じないで動かされる。自分で決めていると思っている。

  「エッシャーの昼と夜、見たことある?」
  「 あの空飛ぶガンね」
  「無意識はあれと同じ。昼にもなるし、夜にもなる」
  「まるでスターウォーズの世界みたいだね。じゃぁ佐藤はベイダー卿?」
  「あたしはレイア姫?」
  「フフフ、現実はそううまくはいかない」
  「なんだ、面白くない」
  「それで?」
  「ジュネーブへ行ってみない。素粒子研究所でたけさんが待ってる」

  ヨーロッパ素粒子物理学研究所(CERN)には世界中の有数の素粒子物理学者が集まり、毎日、研究にしのぎを削っている。このあいだもヒッグス粒子の発見で世界中のニュースになった。重力や宇宙のダークエネルギーの研究者も多い。そもそもインターネットの仕組みはここから始まった。学術情報を共有管理するここのシステムが発展してできたものだ。


  「トラムでのんびりと来るのもいいね」
  「でも、かなちゃんが赤い電車にしか乗らないって言い張ったのにはまいった」
  「ごめんねぇ。イヤイヤ期真っ最中なもんだから」
  「かなちゃんにも自分って言う意識が育ってるんだよね」
  「もうすぐたけさんの泊ってるホテルだ」

  ホテルに着いた。フロントから連絡してもらっている。女の人がフロントにはちょっとめずらしい三つ編みで、何だかわからないけれど、ふ~んジュネーブだなぁと変に感心した。その間もかなちゃんはひとときもじっとせずにロビーをあちこち探検している。ロビーの強化ガラスに両手の手のひらを圧(お)しつけてじっと外を見ていたが突然振り返った。こっちを見る顔が嬉しそうだ。

  「たくさん!」
  「やぁ、かなちゃん、いい子にしてる」
  「いいこ」
  「そりゃあすごい。はいどうぞ」

  外から入って来たたけさんの拡げた腕に向かって、かなちゃんが走りこんでいく。

  「たけさん、外に出てたの」
  「ああ、もう来る頃かと思って。散歩がてら迎えに行ったんだ」
  「行き違いだったね。そんなもんだ」
  「そう。そんなもんだ」
  「そんだもんだ」
  「モノマネかなべえ、そんな、もんだ!」
  「そんだもんだ」

  たけさんは専門分野である神経ネットワークの学術会議に来ている。この会議には最近流行(はや)りのアーティフィシャルネットワークも含まれている。今回は神経索の伝達物質のうちのサードメッセンジャーについて、アーティフィシャルネットワークに応用した知見を研究発表するらしい。

  「たけさん忙しそうだね。いいのかなぁ来ちゃって」
  「うれしいよ、みんなが来てくれて」
  「伝達物質のことじゃないんでしょ、話したいことって」
  「ああ、ベイダー卿に関することなんだ。伝達物質より面白いかもしれない」

  「ここの友人から聞いた話だが・・」とたけさんが話し出した。

  CERNのコンピュータネットワークは十一層の次元サーバーで構成され、ハッカーの侵入ができないようになっている。しかし最近、上部の四層が侵入される出来事があった。この問題を解析しているときに、次元を飛び越えて伝達している信号が見つかったのだ。この正体不明の信号はダークシグナルと呼ばれるようになった。CERNの内部では、ごく一部の人たちだが、たけさん達の能力を知っているので、ダークシグナルとの類似性について相談されたということだ。ここには優れたホワイトハッカーがたくさんいる。彼らが信号を追跡し、調べたところ、ベイダー卿の存在が浮かび上がった。今ではダークシグナルの次元モードが分かっているので同調しようと思えばできるということだ。しかし、むやみに同調する危険性も指摘され、たけさんに相談があったのだ。

  「みんな、覚悟はいいかい」
  「ブルブル」
  「圭、ふざけないで」
  「武者震いさ」
  「じゃぁトムの所へ行こうか」

  車でちょっと郊外へ出る。大きなランナバウトを過ぎると右手に赤茶けたドームが見えてきた。CERNだ。LHCなどの主な設備はすべて地下にあるので、見える景色は殺風景な工場みたいだ。所々に変なモニュメントが点在している。車を駐車場に止め、茶色い葉っぱが風に揺れている楓(かえで)のプロムナードを歩く。ヨーロッパ原子核研究機構と英語とフランス語とで書かれた表示がある建物のまえに来た。たけさんは勝手知ったる我が家と言うばかりにズンズン、中に入っていった。みんなもキョロキョロしながら後をついていく。

  「研究所はどこも似たようなものね」
  「ほんと。ここも漁礁」

  漁礁の一つからトムが出てきた。トムはCERNの上席研究員だ。みんな顔見知りだが、久しぶりのオフラインの挨拶を交わす。

  「じゅんが国際学会の準備要員で今いないんだ」
  「それはしょうがないです。残念だけど」

  トムがかなちゃんに目を向けて、

  「かなちゃん、もう話せるんだ」
  「トム、バイバイシーユー」
  「最近覚えた英語なの。バイバイとシーユーでワンセット」
  「それはすごい。バイリンガルだ」

  トムの研究室におじゃまして、「生け捕り作戦」会議に入る。まずダークシグナルの次元モードの解析結果について説明を受ける。さっそくあちこちから質問が飛ぶ。みんな、解析と体感とのずれが気になるようだ。対策に同調の次元バリアーを重層にすることにした。

  「息を合わせよう。わたしと圭、きみとハルだ」
  「じゃぁ、いいね。始めよう」

  部屋が静かになり、エアコンの風音が聞こえる。光が満ちてきた。頭の中でたけさんの声がした。

  「同調だ」

  と同時に身体の中を冷たい風が吹き抜けた。手のひらの光が氷のような輝きに変わった。冷気が丹田の辺りで蠢(うごめ)いている。その蠢きをじっと観察する。佐藤だ。次第に冷気は丹田を出て吹き荒れ、突然咆哮(ほうこう)した。

  「かな、来て」

  ハルさんが叫んだ。爆風が身体を吹き抜け、手の先から熱い光がほとばしった。

  「次元をすり抜けたな」

  たけさんの声がした。佐藤を取り逃がしたようだ。

  「まぁいいさ。また機会はある」

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第二十場           モンブラン

  トムとたけさんに挨拶をして、CERNを離れた。せっかくジュネーブに来たのだから、みんなでモンブランまで足を延ばそうということになったのだ。アンヌマスを通り、ルートA40を南下して行く。しばらく行くとお腹がすいてきた。

  「どこかでお昼にしない?」
  「いいね。今どの辺り?」
  「もうすぐボンヌビル」

  右手にモロッコ風のレストランが見えたので前に車を止め、入ってみる。幾何学模様の内装になんだか落ち着く。

  「抽象的なものは落ち着くね」
  「青が多いからじゃない?」

  などとわいわい言いながら勝手に席に着くと、太めのおばさんがメニューを持ち、微笑みながらやってきた。メニューを見て、指さしながら注文する。すぐにおばさんが大皿に大盛りのクスクスとポットとカップを載せたトレイを持ってやってきた。トレイをテーブルに置くとポットを頭上にかざし、カップ目がけてコーヒーを注ぎ入れた。まるで曲芸みたいだ。

  「すごい!」
  「ブラボー!」
  「トレビアン!」

  賞賛の嵐だ。おばさんもニコニコしている。奥の席にいた常連さん風の夫婦者もパチパチと拍手する。駐車場に止まっていたサイドカーの付いた三輪モンスターバイクは、他に客がいないところを見るとこの人たちのものらしい。目を合わせてほほ笑むとVサインが返ってきた。女の腕が赤と青のタトゥーで彩られているのが見えた。

  「このクスクスの量はすごいわ」
  「ジャンボンって何かと思ったけど、このハムの大きさも半端ないね」

  私達には大盛りの食事をなんとか平らげて、おばさんが最近連絡がない息子の文句を言うのに付き合ってから外に出ると爆音がした。先に出た夫婦者が乗ったモンスターバイクが走ってくる。あっと言う間に目の前を通り過ぎた。と思うとすぐに、Uターンしたバイクが戻ってきた。デジカメを向け、シャッターを切る。サイドカーに乗り、ヘルメットに入りきらない髪をなびかせた女がVサインする。ドライバーは紅の豚のポルコ・ロッソが被っていたようなヘッドギアと丸眼鏡をつけている。

  「ホッホッホ~、ダース・ベイダー!」

  と言う声を残し、バイクはあっと言う間に眼前を疾走して視界から去った。

  「なに、あれ」
  「佐藤の仲間?」
  「偶然だろ」

[谷間の花]   しばらく話題になっていたが、途中、モンブランが見え隠れし、そのたびに一喜一憂しながら、シャモニーに着いたら本場のケーキ・モンブランを食べるんだとハルさんが張り切っていた。

  ほどなくして、シャモニーに着いた。駐車場にクルマを入れ、とりあえずあたりを物見遊山にぶらぶらする。ハルさんが街角にあったしゃれたパティスリーに入り、みんな期待してうしろに続いた。


  「え~、ないの~、本場の正真正銘のモンブランケーキ」
  「モンブラン・オ・マロンはいろいろあるけど、モンブランケーキの本場は日本みたいだよ」
  「そうなんだ~」

  意外なほど気落ちしていたハルさんをなだめながら、季節は少し早いけれど、街中にあった案内所で勧められた山麓付近をトレッキングする。渓流の岩場をあちこちミソサザイが飛び交っている。その脇の斜面で咲いていた、スッと立ったうすむらさきの花が妖精の翅(はね)のような綿毛を震わせていた。

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第二十一場           時の娘

  病院の窓から色づいた樹々が見える。黄色くなった楓(かえで)の葉が風にそよいでいる。季節に身を任せてのんびりするのもいいと自分の中の自然の声に耳を傾けている。時間は一様でなくて、どこかデコボコしていると思う。もう入院して一週間になる。ヘルペスウィルスが身体をまわって脊髄炎になった。はじめは手先が何かピリピリするのでおかしいなと思っていたのだが、やがて帯状疱疹が出てヘルペスだということがわかった。しかしウィルスが脊髄を犯すとまでは思っていなかった。病院のベッドに寝て天井ばかり見ていると、天井をカンバスにして、染みを配置した抽象画が見える。絵は四方に拡がって果てしがない。そんな風に思いを巡らしているとちっぽけな自分が開放され、想いはとなりの星へとつながっていく。

[天井のwormhole]   ジョンとハーンが訪ねてきてくれた。モンスターバイクに乗っていた二人だ。ジョンはトムの所のホワイトハッカーだった。まじかに見るジョンの顔はイージーライダーでのデニス・ホッパーみたいだ。先日ジュネーブで佐藤を捕まえ損ねたときには、思いがけないほど大きな抵抗を受けた。ジョンはトムの解析グループからの詳しい報告を伝えてくれた。それによると、ベイダー卿側は人の能力だけでなく、AIを使ってその威力を強化しているが、それが予測した以上に強力だったとのこと。あのときは意識の縛りがないかなちゃんの無意識パワーに助けられた。案内役でついてきた圭たちが、

  「何か弱点はないのかい」
  「トムの報告によると、人の無意識は身体の感覚に依存している、極言すると感覚そのものだが、AIにはそれがない。AIによる強化はまったくバーチャルなものだということだ」
  「それってどういうこと?」
  「強化する対象自体に仮想的なリアルを設けるということらしい」
  「モンスターが身体にできるということ?」
  「実際にはできていないが、意識や無意識はできていると感じるということ」
  「するとどうなるの」
  「腕のない人が指先がかゆいと思うことがあるように、モンスターによって元の意識が かく乱されることがある」
  「佐藤はどうなるの」
  「・・・・・」
  「エッシャーの昼と夜かぁ。昼は明瞭だけど、夜の闇は深くてよく見えないからなぁ」
  「時の娘と言う言葉を聞いたことがあるかい」
  「時が真理を教えてくれるということでしょ。リチャード三世の人物画の話ね。あれは面白いアームチェア探偵小説だったわ」
  「接触したときのベイダー卿の感触の中に、昔一緒に遊んだ子供の佐藤もいたような気がするんだ」
  「時がたてば分かるか・・・」
  「昔の佐藤に戻るといいなぁ」
  「そう言えば、最近ベイダー卿の話を聞かないね」
  「トムの意見では、この間の接触で相当モンスター化が進んだはずだ、放っておいたら廃人になるだろうと言っていた」
  「時の娘か。そう、放っておいてもベイダー卿がやがていなくなるのは必然なんだ。存在自体が弱点だったんだから」
  「でもベイダー卿がいなくなったら、佐藤に戻るんだろう?」
  「そうだといいね」

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第二十二場           ヒース

  「イギリスの個人主義は、少なくとも己は己の価値観で生きるという人生観を人々に教えてきたという点では、悪くはないイデオロギーだ。さらに、この国の階級もまた、多様な価値観を生むことによって、人の心を自由にしてきたのではないだろうか。平等社会や均一社会は、たしかに人間をがんじがらめにしている一面もある。結局、幸せとは、自分に合った週末の過ごし方を知っていることなのだ」

            「ロンドン骨董街の人びと」        六嶋由岐子


  やっと病院暮しから解放され、ひと冬をのんびりと過ごした。ようやくいい陽気になったので、圭が「退院祝いだ。久しぶりにヒースの丘にピクニックに行こう」と誘ってくれた。ハムステッドの街の裏道をランチが入ったザックを背負って歩く。工事中だった家のブロックはすっかり積み上がっていて、壁を背にしてミモザの花があふれんばかりに咲き誇っている。ヒースの丘はまだ一面の緑だ。草が深くてかくれんぼにもってこいだと思ったのだが、姿を隠すと、かなちゃんが泣き出してしまった。

  「かな、今日はご機嫌斜めだねぇ」
  「昼寝の時間だからね」
  「珍しくいい天気だし、みんな、昼寝しよう!」
  「青空だし~。日焼け止め、日焼け止め」

  ひと休みしてからケンウッドハウスへと歩く。空をゆったりと雲が流れ、ターナーを見に行く前に実物を眺めている気になってくる。


  じゅんちゃんが車椅子を押してこちらに来る。ケンウッドハウスの緩やかなスロープになった庭をこちらに向かって来る。近づくにつれて、車椅子に乗った男の顔がはっきりしてくる。その顔は、苦しい痛みを心に抱いている顔、優しい瞳、豊かな知性を感じさせる穏やかな面差し、大きな邪悪と大きな病とを背負った人の顔、心の休まる時がない表情、放心状態かと思うと次の攻撃を考えている顔、思慮深い顔、といった風に千変万化している。

  「久しぶり」
  「佐藤?」
  「え、ベイダー卿?」
  「街中(まちなか)のパブの前で倒れていたそうだ」
  「黒魔術師のうわさがあるパブかな」
  「そんなうわさもあったね」
  「有名よ。ネットでも」
  「ベイダー卿たちがその正体か」
  「そうかなぁ」
  「佐藤、わかるか、圭だ」

  男の目は焦点が定まらない。相変らず百面相を続けている。

  「しばらく静養させてみるよ。散歩してるとおとなしい」
  「ロイヤルフリー病院?」
  「うん」
  「ずいぶん遠くまで来たね」
  「何ということはないさ、ぼうず山の頃と比べれば」
  「ふふふ、それもそうだ。思いだすね。昔の佐藤に戻るかなぁ」
  「それより、病院に黒魔術師が出たっていううわさにならないように」
  「圭、また悪い冗談を言って。そんな場合じゃないでしょ」
  「ゴメン、ゴメン」
  「おかお、かわいそう」
  「そうねえ、かな。可哀そうね。お顔、治るといいね」

  でも、佐藤が見つかったのがロンドンで良かった。ここでは付き添う者にも本人にも、「世間」をあまり気にする必要がない。百面相の振れ幅が小さくなり、やがて収まり、自分に合った週末の過ごし方を見つけることが出来るようになるまで、時間は充分にあるのだから。

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第二十三場           メール

Subject: FW:Have a cup of coffee
From: Jun 2019/11/26 9:32
To: Kei, May

佐藤からメールをもらったんだ。一進一退というところだ。ひとつのグリア細胞(アストロサイト)が佐藤とベイダー卿の両方を担っている場合があるからなかなか進まない。例えると、大きくなってからバイリンガルの言語をしゃべるようになった子は、脳内の別々の部位でそれぞれの言語を処理しているんだ。だから、使っていない言語の方は忘れやすい。でも、幼少期から母語としてバイリンガルの言語の中で育った子は、脳内の同じ部位で両方の言語を処理している。だから、片方を分離するというのがなかなか難しいんだ。それと同じようなものかな。


Subject: Have a cup of coffee
From: Satoh 2019/11/25 22:02
To: Jun

ずいぶん永い間、眠っていたような気がする。暗闇の中で、高いところを浮遊していた。耳元を吹く風の振動を感じていた。うつらうつらする中で、ぼうず山の松の木の枝に腰かけて、目のまえの山並を眺めてぼうっとしている自分を、斜め上から見ている自分がいた。視線を下げると、校舎の窓超しに、木の上の自分を見ている自分がいた。変な気分だ。圭とじゅんちゃんが怖い顔をして、こっちへ来る。あのことかなぁ、嫌だなぁというきもちが湧きおこってくる。あのときは悪かったね。なんだかまだ、頭がぼうっとしているんだ。一回、目が覚めたんだけど、ベッドに寝ていた。白っぽい天井とクリーム色のカーテンが見えた。「ベイダー卿を閉じこめた」という声がしていた。おれをとじこめただって? ちゃんちゃらおかしい。 農家の納屋の木の扉のすきまから覗いていたんだ。そうしたら手のひらが輝いたんだ。人の輪郭が浮かび上がって、 「ゆっくりと息をはくんだ」という声が聞こえてきたけど、扉の陰に隠れていたんだ。そうか、ああやるのか、と思った。あぁ、また、眠くなってきた。じゃあ ...


Subject: Re:FW:Have a cup of coffee
From: Kei 2019/11/27 19:38
To: Jun, May

昔の佐藤が戻ってきたのはいいことだ。多少おかしなところがあっても。少しずつでも治ってきているのは、歓迎すべき方向だ。それにしても小学生のときのことをよく覚えているな。すっかり忘れていたよ。そういえば、そんなことがあったような気がするなぁ。佐藤はやっぱり、無意識の練功(れんこう)を見ていたんだ。うかつだったなぁ。うっかりできないね。自分が自分を観察している感覚というのは、よくわからないな。夢のようなものかな。最近は夢も見ないなぁ。セルロースとリグニンの分離工程を考えるのにいそがしくて。そっちの方はどうだい?


Subject: Re:Re:FW:Have a cup of coffee
From: Jun 2019/11/28 7:12
To: Kei, May

まぁまぁかな。一歩一歩、着実に、というのが一番いいね。なにしろ、わからないことが多すぎて、ということはワクワクすることがたくさんあって、モグラたたき状態だ。最近はアストロサイトの情報伝達に、いままでのメッセンジャーのほかに不思議な現象をもつものがあるとわかって、わくわくしてるんだ。なにしろ、隣り近所の細胞だけでなく、体中の細胞とやりとりしているんだからビックリだ。無意識の分析と統合にすこし近づいた気がするんだ。May、聞いているかい?


Subject: Re:Re:Re:FW:Have a cup of coffee
From: May 2019/11/28 8:13
To: Jun, Kei

聞いてるよ。いま、「シンプルライフ」の執筆中なんだ。もうすぐ、脱稿。せっせ、せっせ。 ところで、現地調査を兼ねて、みんなのとなりの星へいってみない?

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第二十四場           わたしって?

          たそがれが深まり、月光がますます輝きを強めるにつれて、自分自身がわかってくる
          私とはだれなのか
          どこにいるのか
          まわりの壁がせばまると、気持ちが集中し、落ちついてくる
          そして自分が存在していることに敏感になる
          ちょうどランプが暗い部屋の中に差し入れられて、いっしょにいる仲間がわかってくるように

              「The Moon」(抜粋)    ヘンリー・ソロー  (Henry David Thoreau)


  わたしって言えば突然だけれど、ウィルスはかって私たちの一部だったものだ。ゲノムが転写されるときに、外に飛び出してしまった断片。そして放浪のすえにもとの古巣に帰り、爆発的に増殖する。そう考えるとさすがに親近感はわかないけれど、頭から毛嫌いする気持ちも少しだけやわらがないだろうか。そのウィルスを駆除する免疫システムでは、自分自身を攻撃しないように、自分と反応する抗体を作るものがあれば、その免疫細胞は自滅してしまう。脳は免疫系を拒絶できないが、免疫系は他人の脳神経細胞を異物として拒絶する。精神的な「自分」を決めている脳が、もうひとつの「自分」を決めている免疫系によって、簡単に「自分でない」として消されてしまう。つまり身体的に「自分」を決めているのは免疫系であって、脳ではない。


  「おっきいゾウさん外いたー」
  「おっきいゾウさんズウいたー」
  「おっきいゾウさんズウいないねー」
  「お外いるー」
  「お外いるゾウさん…」

  「かながカナ語で、ひとりごと言ってるよ」
  「この頃よくしゃべるね」
  「へぇ~」
  「どうしたの?」
  「かなちゃんを動画に撮ってたら初めてポーズをとったよ」
  「自分が被写体になってるってわかったのかな」


  幼児が言葉をしゃべり始める時期と、「自分」に気づく時期が同じだということはよく経験する。「ことば」と「自分」とは関係があるんだろうか? 自分であるということに気がつくのと言葉を話し始めるのが同じ頃だというのはおもしろい。子供が言葉を話し始めるということは子供の世界を作り始めるということ。でも自分が自分であるとどうしてわかるんだろう?  それに言葉にできないことも多い。言葉にすることは言葉にできないものを捨てることでもある。

  「わたしや自分はどこにあると思う?」
  「え、何だって?」
  「だからさ、自分はどこにいると思う?」
  「どこにって、ここにいるさ」
  「胸の中にかい?」
  「いや、頭の中かな」
  「じゃぁ眠っているときは?」
  「そりゃぁ、眠ってるさ」
  「何が眠ってるんだい?」
  「わたしさ」
  「わたしじゃなくて、眠っているのは脳だろ」
  「眠っているときさ、わたしと言う意識はどこにいるんだろうなぁ」
  「魂はどこかに飛んでっちゃってるよ」
  「ハハハハ、そうだね。でも魂と意識は同じかい?」
  「共通の意識とは言えるけど、共通の魂はなんか変だね」
  「それよりも、わたしの魂と言う方がわたしの意識と言うよりしっくりくるよ」
  「成熟する魂っていうね」
  「ソウル・メイキングっていう言い方もある」
  「手をかけなきゃダメということか」
  「経験と時間を織り込みながら魂(人生)を織り上げてゆくということかな」
  「精神年齢って言うけど、精神そのものは抽象的なものだし、合わないな」
  「う~ん、なんだか分からなくなってきた」
  「じゃぁ、となりの星ではどうなってるのか、見に行ってみようか」



  「そこにいるのは、圭?」
  「いやいや」
  「じゅんちゃん?」
  「いや」
  「だれ?」

        ・

        ・



みんなの、だれのでもない無意識



        ・

        ・

  「ははは、びっくりしたかい」
  「じゅんちゃんか~、なんだ」
  「不思議だろ」
  「うん、わたしって不思議だな。なんだかわくわくする」
  「こんな詩(うた)があっただろ。ぼくには無意識が風に思えるよ」

          だれが[無意識]を見たでしょう。
          ぼくもあなたも見はしない。
          けれど[意識]をふるわせて、
          [無意識]は通りすぎてゆく 

          Who has seen the wind?
          Neither I nor you:
          But when the leaves hang trembling
          The wind is passing thro’.
          Who has seen the wind?
          Neither you nor I:
          But when the trees bow down their heads
          The wind is passing by.
          (Christina Rossetti1)

          『風』 クリスティーナ・ロセッティ

          誰が風を見たでせう?
          僕もあなたも見やしない、
          けれど木の葉を顫(ふる)はせて
          風は通り抜けてゆく。
          誰が風を見たでせう?
          あなたも僕も見やしない、
          けれど樹立が頭を下げて
          風は通りすぎてゆく。

          (訳・西條八十)

  わたしの中を風が吹き抜けた。風はそのまま宙(そら)へ拡がり、わたしの身体中に、目に見えないエネルギーが流れ込んできた。そのとき、わたしが、その見えないものそのもの・ダークマターなのだとわかった。

昴 (谷村新司)  youtube へリンクします。
谷村新司さんは 2023年10月8日 に、星になりました。

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